男の生き方とは?ミッドウェー海戦の敗北と山本五十六の名言

2018年6月28日

誰よりも平和を希求した男 山本五十六

日本が敵(かな)う相手ではない。 

国力の差を十分に認識し、アメリカとの戦争に誰よりも強く反対していた山本五十六。

その山本五十六が最後の職務に就くことになったのが、戦艦大和や航空母艦(空母)を指揮する連合艦隊の司令長官。

時代は戦争へと突き進む。日本、ドイツ、イタリア。三国同盟の締結。軍部も世論も一気に対米戦へと傾いた。

最前線を指揮

誰よりも強く戦争に反対していた男は、しかし、皮肉にも超大国アメリカとの戦いの最前線を指揮することになった。

山本が立案したのが、真珠湾攻撃。

苦渋の末、山本は日本を守るためにアメリカと戦うことを決意。しかし、相手は超大国のアメリカ。まともに戦っては勝てない。

そこで山本は、世界初の秘策を練る。

これまでの戦いの主力は戦艦が常識。しかし、山本は、戦艦ではなく、航空母艦を出撃。アメリカの太平洋艦隊が集結するハワイの真珠湾を飛行機によって攻撃し、大打撃を与え、アメリカ国民の戦意を喪失させる。

そして、アメリカと早期に和平交渉を行う。これ以外に日本が救われる道はない。 

昭和16年(1941年)12月8日。

日本の航空母艦6隻から、約350機が発艦。

わずか2時間足らずの攻撃で、アメリカの戦艦4隻が沈没、1隻が大破、1隻が中波。

8隻のアメリカ戦艦部隊は、ほぼ壊滅的な打撃を受けた。ここに日米開戦が始まった。 

戦勝気分に湧く日本。

しかし、アメリカ太平洋艦隊の司令官、ニミッツ司令長官は「真珠湾で沈没した戦艦は旧式戦艦で速力が遅く、戦力の喪失にならない。日本は、空母と巡洋艦、駆逐艦を見過ごし、しかも450万バレルの重油を見逃した。この燃料がなければ、艦隊は数カ月にわたって真珠湾から出ることができなかった」と、真珠湾の被害は大きくなかったと認識。

真珠湾の潜水艦基地も無傷だった。

アメリカの空母を撃破できなかっただけではない。真珠湾の潜水艦基地も無事だった。戦争がいざ始まると、アメリカの戦艦よりも、潜水艦による被害の方が大きかった。

日本の輸送船は、アメリカ潜水艦に攻撃され、次々と撃沈された。石油や物資などの補給路を断たれ、資源が乏しくなった日本は、絶望的な神風特攻隊を行った。

しかし、アメリカが新開発したレーダー射撃や新型戦闘機に阻まれ、ほとんどの特攻機がアメリカの軍艦に体当たりすることなく撃ち落された。

――アメリカは無傷だ。真珠湾攻撃は失敗。

日本の全国民が戦勝気分で浮かれるなか、山本はひとり苦渋の表情を浮かべた。アメリカは「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、戦意喪失どころか、対日戦争への戦意を燃やしている。

敗北の想い

真珠湾攻撃で「勝った」にもかかわらず、山本は敗北の想いをかみしめていた。

そして、それは現実のものとなった。

東京、初空襲

昭和17年(1942年)4月18日。アメリカの空母から発艦した爆撃機が東京や川崎、横須賀、名古屋、神戸などを空襲。開戦からわずか4カ月で日本は、アメリカから本土爆撃を受ける。

日本への本土爆撃などありえない

真珠湾攻撃が成功し、東条英機首相兼陸相は「日本への本土爆撃などありえない」と豪語していたが、日本は一度もアメリカ本土を爆撃しておらず、早くも山本が心配していた出来事が起こった。

天皇陛下を不安にさせてはいけない。

帝都(東京)への爆撃を二度とさせてはならない。そのため、連合艦隊司令部の参謀たちが考えたのが、太平洋の真ん中に浮かぶ小島「ミッドウェー」攻略作戦だった。ミッドウェー島を占領し、日本軍の守備隊を駐屯させる。

アリューシャン列島からミッドウェーにわたって、航空哨戒線を築き、これを防波堤として東京への空襲を阻止する。

真の狙いは、アメリカ空母艦隊の撃滅

しかし、山本の考えは違った。ミッドウェー島への攻撃とみせかけて、アメリカの空母部隊を誘い出し、これを撃滅するのが真の狙いだった。アメリカが空母の増産を行う前に、現在の空母部隊を全滅させ、アメリカとの和平交渉につなげることが山本の作戦だった。

――短期決戦、早期講和。

これ以外に日本が生き残る道はない。

日本を迎え撃つアメリカ空母艦隊

一方、アメリカ太平洋艦隊を指揮するニミッツ司令長官は日本軍の暗号を解読し、日本の空母部隊を迎え撃つべく、エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウンの三隻の空母を出撃させた。

日本の空母から第1次攻撃隊が発進 

時に、昭和17年(1941年)6月5日、午前1時30分。

南雲忠一・中将が率いる航空母艦4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)から第1次攻撃隊が発進。ミッドウェー島へと向かった。しかし、日本の攻撃を察知していたアメリカ軍の攻撃は激しく、爆撃は不十分となる。

敵空母発見!魚雷から陸用爆弾へ

このため、南雲忠一指揮官は、アメリカの空母への攻撃のために待機していた飛行機から魚雷をはずし、陸用爆弾へと切り替える。その後、アメリカ空母発見の連絡が入る。しかし、すでに魚雷から陸用爆弾への兵装転換が終わった直後だった。

すぐに飛行機を発艦させるべきだ

空母・飛龍に乗船していた山口多門少将は、南雲に進言。陸用爆弾を装備した飛行機をすぐに、アメリカの空母に向かわせるべきだ。

致命的な失敗

しかし、南雲は先にミッドウェー島を攻撃した第1次攻撃隊約100機の収容を優先させ、全機を陸用爆弾から魚雷に兵装転換するという致命的な過ちを犯す。

飛行機の経験のない指揮官 

南雲はもともと水雷戦隊の指揮官であり、軍艦同士の戦いのプロであっても、航空指揮の経験がなかった。飛行機による戦いがどんなものなのか。それをわかっていなかった。

飛行機の戦いは時間が勝負

一刻も早く、相手に損害を与えなければ、こちら側がやられる。魚雷で空母を沈める必要はない。陸用爆弾でも、空母の甲板を十分に破壊できる。

アメリカ空母からの飛行機発進をまず阻止すること。それができなければ、こちらが先にやられる。航空機の戦いがどれほど怖いのか。山口多門はそれを知っていた。なぜなら山口は、航空機の戦いを知るプロだからだ。

日本の年功序列制度が、日本を敗北に

しかし、山口多門の進言を南雲は退ける。

南雲が、航空指揮の経験を持つ山口多門よりも権限を持っていたのは、“年功序列”という日本独自の制度によるものだ。適材適所や実績、能力ではなく、学歴や年齢、序列が優先される。

日本の空母は誘爆、沈没

陸用爆弾から魚雷に兵装転換している間に、アメリカ空母から発艦した攻撃隊に襲われる。投下された爆弾は甲板を突き破り、多くの魚雷や陸用爆弾が転がっていた飛行格納庫で炸裂。空母の甲板は吹き飛び、赤城、加賀、蒼龍は火だるまとなった。

短期決戦、早期講和はほぼ不可能に

生き残った飛龍は、アメリカ空母を撃破し、一矢を報いる。しかし、急降下爆撃を受け、大火災を起こす。山口多門は、飛龍と運命を共にする。

真珠湾攻撃で華々しい戦火を挙げた日本の4隻の空母は全滅。この瞬間、短期決戦・早期講和への可能性が経たれる。

戦艦大和の艦橋で、この報告を知らされた山本五十六は言った。

「4隻ともやられたか」

自分の死に場所を

日本の軍令部・大本営は、この歴史的な敗北を隠し、これ以降、日本国民に嘘の勝利を発表していくようになる。新聞記者たちも真実を取材することなく、軍部の嘘の発表に協力していく。

山本五十六は、本来であれば抗議すべきなのに、抗議していない。

山本はすでに覚悟を決めていたのか。

運命の日

昭和18年(1943年)4月18日。

参謀たちが止めるのも聞かず、山本は最も危険な前線の視察へと飛行機で赴く。山本の行動を察知したアメリカ軍は数多くの戦闘機を向かわせた。山本はブーゲンビル島の上空で戦死。

山本五十六は生前、戦死した多くの兵士たちの名前を手帳に書き記していた。

「もうこの手帳もいっぱいになってしまった」

 

死んでいった多くの若者たち。生きていたら、たくさん遊び、たくさん恋して、運命の女性と巡り会い、家庭を持ち、優しい父となり、子どもと遊んだことだろう。

(神風特攻隊に赴く3時間前の少年兵たち)

山本五十六の名言

「やってみせ」

死の間際、山本五十六の脳裏をかすめたのは何だったのか。

山本は、こんな言葉を残している。 

苦しいこともあるだろう。

云い度いこともあるだろう。

不満なこともあるだろう。

腹の立つこともあるだろう。

泣き度いこともあるだろう。

これらをじつとこらえてゆくのが男の修行である。

(女学生に見送られて出撃する神風特攻隊)

実年者は、今どきの若い者などということを絶対に言うな。

なぜなら、われわれ実年者が若かった時に同じことを言われたはずだ。

今どきの若者は全くしょうがない、年長者に対して礼儀を知らぬ、道で会っても挨拶もしない、いったい日本はどうなるのだ、などと言われたものだ。

その若者が、こうして年を取ったまでだ。

だから、実年者は若者が何をしたか、などと言うな。

何ができるか、とその可能性を発見してやってくれ。

 

(火を噴きながらもアメリカの空母に体当たりしていく神風特攻隊)

国大(どんなに国が大きくても)なりといえども

戦を好まば

必ず滅ぶ

(片道分の燃料で沖縄へ特攻出撃し、炎に包まれる戦艦大和)

やってみせ、言って聞かせて、 させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ。

話し合い、耳を傾け、承認し、 任せてやらねば、人は育たず。

やっている、姿を感謝で見守って、 信頼せねば、人は実らず。

 

ああ われ何の面目ありて見(まみ)えむ大君に

将又(はたまた)逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし

いざまてしばし若人ら死出の名残の一戦を

華々しくも戦ひてやがてあと追ふわれなるぞ