死の原因は?テレサの幽霊に会う。テレサテンが急死したタイ・チェンマイ「インペリアルメーピンホテル」

死の原因は?テレサの幽霊に会う。テレサテンが急死したタイ・チェンマイ「インペリアルメーピンホテル」

タイ北部にある古都、チェンマイで、テレサ・テンとよく似た可愛い女の子と付きあっていた。だから今でもテレサのことが気になる。

テレサ・テンの死亡原因は?

1995年5月8日、テレサ・テンは静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作を起こし、42歳の若さで逝去した。

テレサ・テンはメイピンホテルのスイートルームに泊まっていたが、苦しみのあまり胸を押さえて部屋から出てきて倒れたところを、ホテルの従業員が発見し、救急車を呼んだ。病院に運ばれたが、搬送時には既に心肺停止状態だった。

この写真、このエレベーターの前でテレサ・テンが倒れていた。すでにこの時点で死亡していた。

鄧麗君

アジアの歌姫、テレサ・テン(鄧麗君)。台湾出身の歌手で、日本でも『つぐない』『別れの予感』『時の流れに身をまかせ』などの歌で知られている。テレサは1995年に、42歳の若さで逝去。亡くなった場所が、静養のために宿泊していたタイ・チェンマイのインペリアルメーピンホテル。テレサが滞在したスイートルームは宿泊者以外にも開放され、今も冥福を祈るファンたちが数多く訪れている。

テレサ定住のスイートルーム

タイの人気の観光地チェンマイ(Chiang Mai)。バンコクから北に約720キロメートルの場所にあり、「北方のバラ」「タイの京都」とも呼ばれる美しい古都だ。風情のある寺院が多く、グルメ、可愛い雑貨土産など、タイ北部独自の文化が随所に見られ、乾季(11月~1月)のベストシーズンは涼しい気候なので、避暑地としても人気がある。

そんなチェンマイの中心部にあるのが「インペリアル・メー ピン・ホテル(The Imperial Mae Ping Hotel)」。チェンマイ・ナイト・バザール(写真)へは徒歩約5分と近く、観光の拠点としても人気のホテルとなっている。

米タイム誌で、世界7大女性歌手の1人に選ばれたテレサ・テン。可愛いルックスと哀切な歌声は、今も多くの人々の心を揺さぶり続けている。晩年のテレサは喘息をこじらせ、静養のためにたびたび宿泊していたホテルが「インペリアル・メー ピン・ホテル」

そんなホテルにはテレサを忍ぶ場所が幾つかあり、写真のカフェ(1階)もその一つ。テレサがよく利用していたレストランをリニューアルしたカフェだ。テレサの歌を聴きながら昔を懐かしみ、スイーツやタイティなどを楽しむことができる。

テレサが泊まっていたスイートルーム(Teresa Teng Suite)は宿泊者以外でも見学することができる。見学するにはロビー1階でチケット(写真)を購入。部屋の見学のみと、見学+アフタヌーンティーのセットになったプランがあり、それぞれお好みで選ぶことができる。

エレベーターで最上階の15階にまで上がり、写真奥にある角部屋の1502号室が、テレサ・テンが長期宿泊していたスイートルーム。テレサは1995年5月8日、気管支喘息の発作で急死するが、このエレベーターの前付近でテレサは倒れた。時刻は午後4時ごろ。ホテルのスタッフには当時の彼女を知る人もいるので、生前の彼女のようすを教えてもらうこともできる。

エレベーターから廊下を進むと、ここが1502号室のテレサ・テン・スイート。「テレサ・テン・ミュージアム」として見学することができる。一番多く訪ねてくるのが中国人観光客。日本や台湾、シンガポールのほか、タイ人も多く訪れている。テレサが急死してから約40年が過ぎても、彼女の人気の高さがうかがわれる。タイムリーでテレサの歌を聴いたことのない、若い女性が多いことに驚く。

部屋に入ると、等身大のテレサの写真がお出迎え。そのわきには卓上の豪華な三面鏡が飾られ、これもテレサが愛用していた調度品の一つ。

テレサの香りがどこからか

こちらは、さきほどの三面鏡の前に置かれていた写真。真ん中がテレサ。右側の男性がホテルのマネージャ。左側がフランス人のボーイフレンド。1994年12月に撮影された写真です。クリスマスディナーの時に撮影されたもの。

こちらはリビングルーム。重厚な雰囲気があり、ゆっくりくつろげる。カーペット以外は、テレサが当時使っていたものがそのまま残され、彼女の香りが今もどこからか漂ってくるよう。

これは、リビングルームに置かれたテレサの写真。テレサは白いユリの花が好きだった。

テレサが気に入っていた静けさ

ここは部屋の一番奥にあるバスルーム。「古き良きホテル」「ひと昔の高級ホテル」という雰囲気が今も残り、どこか懐かしさが感じられる。

バスルームの前には鏡台があり、右に見えるのがクローゼット。ここは支度室として使われていた部屋。テレサは普段は化粧することもなく過ごしていたが、とても優美な女性だったらしく、ホテルスタッフの写真にも気軽に応じ、プライベートでも気さくな人柄だった。

鏡台には、テレサとフランス人の恋人の写真が飾られている。驚いた表情のテレサ。彼女を優しい眼差しで見つめるボーイフレンド。

ぜんそくの発作で倒れた時、テレサはひとりだった。この時、恋人とされるこのフランス人の男は何をしていたのか。

1989年、テレサテンはパリに長期滞在し、13歳年下のフランス人カメラマン、ポール(ステファン・ピエール)と出会う。この男は、テレサの最後の恋人。

テレサの恋人のポール(ステファン・ピエール)はヘビー・スモーカーで、部屋の冷房を強くしていた。

この環境は、喘息患者には最悪な状態なことはわかる。

テレサテンは。1994年12月30日午前9時に喘息の発作を起こし、ホテルに医師呼んでいる。

チェンマイの市内の病院で静養していたテレサだが、翌31日の大晦日には発作はおさまり、退院したいという本人の申し出で、インペリアル・メー ピン・ホテルに戻った。

テレサは一日のほとんどを部屋で過ごした。

1995年5月8日。最後の日。テレサはルームサービスで朝食を取っていた。

午後5時15分ごろ(ホテルのスタッフの話では4時ごろ)、テレサテンは突然に発作が起こり、部屋から外に出て助けを求めた。胸を押さえたままの状態で、エレベーターの前の廊下付近で倒れた。すぐチェンマイラム病院に運ばれたが、道路が渋滞し、手当てが遅れた。緊急治療室に入れられたテレサテンはすでに死亡していた。

この時、ポール(ステファン・ピエール)は夕方にひとりで外出していた。午後6時30分にホテルに戻り、テレサテンのいるチェンマイラム病院に到着したのは午後8時過ぎだった。

テレサテン死因は、気管支喘息。ポールは遺体解剖同意書に「解剖するな」と書き入れた。

なぜ、ぜんそくの恋人を前に部屋に冷房を入れて寒くして、煙草を吸い続けるのか。いつ何が起こってもおかしくない危険な状態で、なぜテレサをひとりにしていたのか。

実に不可解なことだらけだ。

ポール(ステファン・ピエール)は金目当てにテレサに近づいたのか。

テレサは暗殺されたとも言われている。

テレサがメーピン・ホテルとチェンマイを気に入っていたのは静けさ。当時はチェンマイでの知名度は少なく、騒がれることもなく、彼女はここで平穏な生活を過ごすことができた。

写真はベッドルーム。この部屋をテレサは気に入っていた。

テレサは、この部屋に過去3度滞在(1993年、94年、95年)。それぞれ約1カ月過ごしました。テレサ・テン・スイートには、テレサのビデオとともに、可愛くも切ない歌声が途切れることなく流れ続け、彼女は今もこの部屋のどこかに生きているよう。

テレサの幽霊と出会う

この時、私はテレサの幽霊と出会った。

実際に見たわけではない。

観光客が途切れることなく大勢押し寄せてきて、テレサの気配を感じることができなかった。

だが、偶然にも1時間ほど誰も来なかった時間があった。

私は、テレサがずっと寝て過ごしていたこのベッドに向きあっていた。

テレサの気配が感じられる。

この時、私は旅行サイトのライターをしていて、その会社から強烈なパワハラを受けていた。東京弁護士会や大阪弁護士会に相談した。「優先的地位の乱用に該当する」と言われた。私は裁判の準備をしていた。

戦闘態勢にいた。

私はいつも一人で戦っていた。

私の見方はペンだけだ。

憎悪心、恨み、憎しみ。怒り。

そんな心にテレサの霊はすっと入ってきた。

「あなたには崇高な魂がある。人を感動させる文章を書く力がある。作家になりなさい。私も苦しんで悩んで歌手になった。

戦争するよりも、あなたは芸術の世界で、あなたは大きな花を咲かせなさい」

テレサからそう言われた時、これまでの恨みや憎しみ、復讐心がすっと消えた。

これまで叩き潰し、叩きのめすことしか考えていなかった。

私はテレサの霊と触れあっていた。

その後も、私はチェンマイで不思議な体験をし続けた。

テレサによく似た可愛い女の子に出会ったのも、この後だった。

ベッドルームの窓からは、チェンマイ市内を見渡すことができる。右下に見えるのがメー ピン・ホテルの中庭。彼女が散策していたガーデン。

左に見える山がドイステープ山。チェンマイで最も有名で人気のドイステープ寺院がある山。私は窓辺から、テレサが見ていた同じ風景を、ずっと長い間、見ていた。

自分の両親が生まれた中国で歌いたい

テレサは亡くなる前、とてもやせ細っていた。激しい発作が起こり、部屋を出てエレベーターの前まで助けを求め、病院に運ばれる間にテレサは息をひきとった。

「自分の両親が生まれた中国で歌いたい」

自分の両親が生まれた中国で歌いたい

そのテレサの夢は、かなうことはありませんでした。

テレサは政治に利用された。

テレサの両親は、中国人。

父親は元中国国民党軍の職業軍人だった。

テレサの両親は、1949年に中国本土での内戦に敗れた蔣介石とともに台湾に移った外省人の中の一組だった。

今でもそうだが、台湾は独立国だと主張し、中国は台湾は中国の一部だと主張し、戦争も起きようとしている。

中国に、「孫文(そんぶん)」という指導者がいて、この人は辛亥(しんがい)革命の中心になった人で、後にテレサの父親が所属する中国国民党をつくった。

孫文が死亡した後,中国国民党を指導したのが「蒋介石(しょうかいせき)」。これに対して対立する中国共産党の指導者は「毛沢東(もうたくとう)」

毛沢東は、中華人民共和国の建国を主導し、中国では「建国の父」と呼ばれる特別な存在と記されている。

一方で、毛沢東は、文化大革命を主導したとされている。

ウイキペディアでは

「文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた、中国共産党中央委員会主席毛沢東主導による「文化改革運動」を装った劉少奇からの奪権運動、政治闘争」と記されている。

大学の政治学の授業で習ったが、この文化大革命で、毛沢東に反対する人々が、二〇〇〇万~三〇〇〇万人も殺されたと習った。

初耳だった。

学校の授業でも、マスコミでも、こんなことを詳しく教えてくれない。

「日本の親中派の巣窟ともいえる朝日新聞社ですら断定は避けているものの、二〇〇〇万人もの中国人が文化大革命の名において虐殺されたことを認めているのだ。実は、自由なマスコミや報道機関が存在しない(させない)ことをいいことに、自らの誤りについて必ず隠蔽する中国共産党ですら、『約四〇万人の死者と一億人の被害者』がいたこと、『中華人民共和国の創設以来、最も厳しい後退』であったことを公式に認めている」「毛沢東が極めて悪辣なのは、この大虐殺を『紅衛兵』と名付けた青少年にやらせたことである。アドルフ・ヒトラーも使った手だが、純真な青少年を一方的な『教育』で洗脳し自らの政治目的の手先に使うことは、私は仮に目的が正しかったとしても、人間として政治家として絶対にやってはいけないことだと考えている」

文化大革命の名において2000万人もの人が虐殺された

多くの国民を犠牲にして 権力を維持する中国共産党

https://apa-appletown.com/2022/09/27/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%A62000%E4%B8%87%E4%BA%BA%E3%82%82%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%81%8C%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C/

毛沢東は中国の国民的英雄なのか。それとも、ヒトラーやスターリンと並ぶ、史上類を見ない人殺しなのか。毛沢東政権の実態を詳細に分析した著書を三部作で出版した歴史学者のフランク・ディケーターに仏誌「ロプス」記者が聞いた。

無辜の市民が犠牲となる「大虐殺」はなぜ起きるのか

テレサ・テンは、ただ歌を愛していた。

自分の歌を愛してくれる、多くのファンを愛していた。

中国では、「昼は鄧小平(中国共産党)が支配し、夜は鄧麗君(テレサ・テン)が支配する」と云われたように、中国では、夢中になってテレサの歌を聴く若者が多かった。

テレサ・テンは、自分の両親が生まれた中国で歌うことが、唯一の願いだった。

天安門事件

ところで、君は「天安門事件」を知っているか?

日本では、「天安門事件」「戦車」「ミンチ」で検索すれば出てくるが、中国では出てこない。

もうネットでは見れなくなった。

中国共産党に対して、言論の自由などを求めた学生たちを生きたまま装甲車や戦車でひき殺され、人間の身体が原型をとどめることなく、ぐにゃりと曲がった自転車とともに血肉の塊が水たまりのように広がっている写真展を、私は実際に見たことがある。

なぜ中国共産党は、天安門事件を消し去ろうとしているのか?

この事実を世界が知ったら、自分たちの政権がひっくり返される。

自分たちにとって都合の悪いことはすべて消し去る。

テレサもこの姿勢に疑問を持ち、天安門事件の抗議集会に参加した。

「天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶまで、こうした事件の表面的な情報でさえ、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。

『よく知らないし、知る必要はないよ』

父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は自分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです」

中国人だった私は何も知らなかった… | NHK | WEB特集

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240628/k10014495701000.html

抗議集会に参加したテレサ・テン

2020年6月4日、天安門事件から31年を迎えた。民主主義と自由を求めた学生の抗議活動は流血の惨事で結末を迎えた。

抗議活動は1989年4月、学生たちが政治的・経済的自由を求めて、広場を占拠したことから始まった。

だが学生たちと政府の交渉は失敗に終わり、中国共産党は戦車と兵士を広場に送り込んだ。

兵士たちは集まった学生たちに発砲、数百名が死亡した。

中国は事件を歴史から葬り去ろうとしている。事件に関するキーワードの検索もしばしば禁止している。

抗議活動は1989年4月に始まった。民主化に理解を示した胡耀邦・元総書記の死を追悼する学生たちが集まった。

数万の学生と市民が北京の中心地にある天安門広場に集まった。

抗議者たちは多くの不満を抱えていた。言論の自由の拡大、収入アップ、インフレの抑制などを求めていた。4月22日、胡氏の追悼大会が開催された後、学生たちは政府に要求を出したが、政府はこれを拒否した。

そして百名を超える学生がハンガーストライキを始めた。

その後、趙氏のライバル、李鵬首相が戒厳令を宣言した。

6月3日午後10時、天安門広場の西、約3マイル(約5km)で市民に対する最初の発砲が報じられた。ABCが伝えた。軍は6月4日午前1時30分に広場に到着した

広場近くの大通りを行く戦車の列に立ちはだかる男性 ── 事件を象徴する写真となった。

中国が歴史から葬り去ろうとしている天安門事件、30枚の写真

https://www.businessinsider.jp/post-192112

「テレサ・テンは1989年5月27日、香港のハッピー・バレーで開かれた「民主の歌声を中華に捧げよう」という集会に、メークなしの「民主万歳」と書かれたはちまき姿で登場したテレサ・テンは「私の家は山の向こう」という歌を歌った。爆発寸前の深い感情を抑えつつ、美しい情感をこめて歌い上げた歴史的なシーンである。いまでもその映像がYouTubeで見られるので、ぜひ見て欲しい。AKB総選挙のような計算された演出の感動ではなく、本当に感動させられる」

天安門事件とテレサ・テン

https://www.huffingtonpost.jp/foresight/tiananmen-teresa-teng_b_5487180.html

テレサ・テンは言う。

「私は中国人です。どこにいても、どこで暮らしていても、私は中国人です」

「だから、今年の中国の出来事(天安門事件)すべてに心を痛めています」

「私は自由でいたい」

「そして、すべての人たちも自由であるべきと思います」

中国共産党にたてついたテレサ・テンはついに、両親の祖国の中国で、大好きな歌を思いっきり歌うことはできなかった。

日本では、たとえば、歌手のさだまさしが、「みんなもいっしょに平和について考えてください」などとコンサートで言っている。

さだまさしは、中国びいきで知られ、長江の「最初の一滴」を撮影する映画『長江』をおつくったが、天安門事件やチベットの問題(17万3221人のチベット人が、刑務所もしくは強制収容所で死亡。15万6758人が処刑死。34万2970人が餓死。43万2705人が戦闘もしくは暴動中に死亡。9万2731人が拷問死。9002人が自殺)のことを描くことは死んでもない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E5%95%8F%E9%A1%8C

日本では、テレサ・テンのような歌手も、文化人も、神主、僧侶もいない。

(ベトナム戦争の時、僧侶がガソリンをかぶって自ら火をつけ、焼身自殺することでアメリカからの戦争に対して抗議し、これがきっかけでベトナム戦争が終結に向かった)

政治なんてどうでもいい。

私はただ、テレサが好きなだけだ。