深夜恋愛特急~プーケット心中未遂「アンダマンの涙」

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拙者は、「勝つ」ために、ここに来た。

普通に、観光ガイドをする気は、ござらぬ。

深夜恋愛

 

 

国境を越える寝台特急に乗って、私は旅をしていた。行き先はなかった。知らない街で降り、安宿を見つけ、寝たり起きたりしてその日、その日を過ごしていた。

シンガポールからマレーシアに入り、タイ南部の港町スラー・ターニーの近くで列車から降りた。町の中心に行くと、埃をかぶった長距離バスが止まっていた。何も考えずに乗りこむと、バスが発車した。熱帯雨林の濃い緑につつまれた丘陵地を眺めながら何時間もバスに揺られていた。

白い魔物のように椰子の樹々を揺らす凄まじいスコールも、生命感に満ちた瑞々しい森も、どこもかしこもただ冷たく、熱や輝きはどこにも感じられなかった。

私は三十歳半ばで、すべてを投げ出し、世捨て人となった。その後、海外を含めた十三年間は難民キャンプや戦場などで、人の不幸にずかずかと土足で入り、当事者の許可を得ずに写真を掲載し、口を糊してきた。人でなし。外道である。

だが、人であることをやめたのだ。そうでなければ人の不幸を食い物にして生きてゆけなかった。

西行も放哉も、釈迦も小角も、救いを求めて旅をしていた。超人の彼らは涅槃寂静に至る己の道を見つけた。誠の愛と自由と歌を求めるためには、世を捨て、人であることを捨て、人の道を踏み外さざるを得ないことを知っていた。それらはきっと、他のすべてを失っても知る価値があるのだ。

 

小さな港町スラー・ターニーから、どれくらいバスに揺られたのだろう。いつの間にか私は眠っていた。まだ眠っていたかったが、車掌から「着いたぞ」と言われ、無理やりに降ろされた。何年も地方を逃げまわって、またバンコクに戻って来た。街はけたたましく、通りはいつも大渋滞。オートバイは歩道を乗り上げ、クルマは人を跳ね飛ばす勢いで突っ込んでくる。

エメラルド色に輝く仏教の帝釈天のような、平和で偉大な都市バンコクは、クルンテープ(天使の都)と称される。高層ビルやデパートが驚異的な早さで建ち並び、仏教とバラモン教が融合した豪華絢爛な金箔と色ガラスで装飾されたタイ独自の寺院にはガルーダ(神鳥)が周囲を囲む。

奇妙で優しい力がこの都市に働いている。ここは大いなる宗教都市だった。霊(ピー)がいる。悪霊を追い払い、良き地霊がこの場所にとどまってもらうためにタイ人はプラプーン(土地の精霊)が宿る祠に食べ物や花、線香を供え、祈りを捧げる。

チャクリー将軍が主君を処刑し、都をトンブリーからチャオプラヤー川の東岸にあるバーンコーク村に遷都し、後のバンコクを興したのは、土地に沁み込んだ血、怨霊を封じ込める狙いがあったのだろう。

人の中に死霊や怨霊、生霊(いきすだま)が息をひそめている。それらは時として人を、自分を、国そのものを滅ぼす。

欧米諸国の帝国主義に抵抗し、東南アジアで唯一、植民地にならなかった微笑みの国。

死に近づくことが至福の快楽であることを知っている国。

神様がこっそり隠した天使の宿る都。天使の水を覆い隠す悪魔の囁き。

祈りだけが邪悪な魂を、身体から大気の中へと放出してくれる。

聖なる祈りの象徴。空の薄茜色を映し出すチャオプラヤー川の湖畔に私は佇んでいた。

その日も、暁の寺を見ていた。茜の空を背に黒いシルエットとなって浮かぶ暁の大仏塔を見つめ続けていた。

タイの神々を四隅に埋め込んだ尖塔。暁の寺に飾られた無数の陶器の破片と小さな鐘。幾重にも重なりあう赤紫を帯びた雲の鮮やかさ。熱い国の薔薇色の光。

真紅に燃える夕焼け。赤っぽい紫や、青っぽい紫。夕暮れの美しさ。暁の寺のまわりで金色や銀を砕いたような光がきらめき、明るく澄んだ旋律が微かに聴こえてくる。幾層もの光が透き通った縞となり、微妙に重なりあいながらも濁ることなく、互いにゆずりあいながら聖なる愁いを纏っていた。

人間が達しうる水平的な奥の極点に突き刺さり、空に向かってまっすぐ聳え続ける。

空の極点から天使たちが白い羽根のように舞い降りてくる。あの天使にもう一度、会いたい。

 

 

斜め肩掛けのショルダーバッグを提げ、色あせた細みのジーンズに金縁のサングラスという姿でスラム街を歩いていた。都市の隙間にはめこまれた細長い空き地に、錆びたレールがまっすぐ伸びている。貨物線の線路のようにも見えるが、列車が走っている気配が感じられない。では、廃線だろうか。

線路沿いにバラック小屋が建ち並んでいる。数人の幼い子どもたちが線路の真ん中で大量のパンの耳を焼いて食べている。すぐ近くにはサイコロ博打に興ずる上半身が裸の男たち。太い腕にはタトゥーが彫られている。得体の知れない異様な空気をひしひしと肌に感じる。私は煙草に火を付け、灰まで肺に吸い込んだ。その時、不意に背後から男の声がした。

「あんた、これ買わんか」

 振り向くと、色濃く日焼けした背の高い三十代の男が立っている。窪んだ眼に鋭い光が宿っている。ただならぬ殺気が厳つい顔つきから滲み出ていた。男は白い粉のようなものが入った透明なカプセルを手のひらに乗せている。背中がぞっとした。思わず、煙草を地面に落した。

男の目に恐ろしいものが光る。男はにやりと笑い、千バーツ紙幣を私の胸ポケットにねじりこんだ。私は恐怖を感じ、身動きできなかった。

「これで、タバコでも買うてくれや」

 男は背を向け、バラック街の路地へと歩いて行った。

 線路わきのバラック小屋から、裸の子どもたちが現れた。その中の一人が私に握手を求めてきた。自分でも知らないうちに子どもと握手をしていた。子どもは笑って、仲間たちに向かって走って行った。子どもの小さな背中を見ながら、この街で暮らしたいと思った。

 たまたま偶然に入った駄菓子屋で、店番をしていた老婆がアパートを貸していることを知り、部屋を見せてもらった。

「ここでええのか?」と、お婆さんが言った。八畳くらいの広さはあるが、がらんとした何もない部屋である。それでも奥にはシャワールームやトイレがあった。ドアにはカギが付いていなかった。宿代は千五百バーツ。バンコクでの中級ホテルで一泊する値段で一ヵ月を過ごすことができる。

白髪頭の老婆は顔のしわをさらに深くし、「生活に必要なものはロータスに売っている」と言った。大きなスーパーマーケットで、二十分ほど歩いたラマ4世通り沿いにあるようだ。

「あんた、名前は?」と、お婆さんが尋ねた。

「シンイチです」

「そうか。あとでまた来るから」とお婆さんはそう言って部屋から出た。

私は階段を降り、お婆さんを見送る。路地裏を歩いていた若い女が「おばちゃん。いつ戻って来たん?」と親しそうに呼び、急ぎ足で駆け寄った。二人は早口で私には理解できない話を始める。私は女を盗み見る。女は若く、楽しそうにしゃべっている。長い黒髪を腰にまで垂らし、目鼻立ちがくっきりとした、見つめるのが恐ろしいほどの美しい女である。胸が高鳴る。目がきらきらと輝き、青い海を映し出したように深く透き通っている。

女は黒いボディコン風の服を着ている。これから店に出かける水商売風の女に見えた。背が高く、形よく高く突き出た胸と細い腰のくびれが、なんともエロティックで艶めかしい。ミニスカートから伸びた足は、瑞々しく肉づきがよかった。女の全身から匂い立つような色気を放っている。

 私の視線に気づき、女が私をちらりと見た。女は一瞬、恥じらうような愁いの表情を見せ、深く影を落とした胸の谷間を右手でかばうような仕草をした。女が目を伏せる。この女の胸の内に秘められた特有の暗いものが、俯いた顔に浮かぶ。私は軽く目を伏した。

「それじゃ、弟が来たらおばちゃんからも言ってあげて」

 女はそう言い残し、細い路地を通って行った。

 

 

お婆さんに教えられたロータスに行き、マットレスや扇風機、鍋などの食器類を買い求め、両手で荷物を抱えながら部屋に戻った。掃除をしていると、開けっぱなしのドアにお婆さんが立っていた。

「ちょっと、ええかな」とお婆さんは言って、部屋にあがった。私はカバンから財布を取り出し、一ヵ月分の家賃を支払った。ありがとう、とお婆さんは言った。

 お婆さんは私を物珍しそうにじろじろと見ていたが、「あんたは日本人か? なんでまたこないスラム街に来たんや」と言った。

「なぜ……と言われても」と私は返答に困った。「私にはどこにも行くところはありませんので」

「行くところがない。日本にはご両親や友だちがいるやろ」

「そんなものはありません」

「そうか。わたしも一人や。子どもにも死なれた。一人ぼっちは辛いのう……」とお婆さんは神妙な顔をした。

「ところで、あんた、日本で何をしてたんや」

「はあ。カメラマンです」

「カメラマン? そんなええ仕事をしていて、やめてしもうたんか。このろくでなし」

 お婆さんは急に怒り出し、母親のように私を叱り始めた。人の将来のことを案じて叱られるのは初めてのことかもしれない。学校や職場、人間関係のすべての怒鳴り声はいつも悪意と敵意に満ちたものでしかなかった。

「まあ、ええわ。あんたに頼みたいことがあるんや」

「何でしょう」

「あんたに、あの駄菓子屋の店番をして欲しいんや」

「私がですか?」

「そうや。何か文句でもあるんか」

「ありませんけど」

「そうか。それじゃ、明日からってことで」

 お婆さんは喜んだ顔になり、部屋から出て階段を降りて行った。私は二階から身を乗り出し、お婆さんを見送った。頭の隅では昨日の女のことが気になっていた。細くらい路地裏にはあの女の姿はなかった。

 

 

 翌朝から私は駄菓子屋の店番を始めた。恐ろしく古く、汚いバラック小屋である。私は店の奥でイスに座り、灰色のコンクリートで塗り固められた通りを見ていた。

 最初に訪れたのは五歳くらいの女の子だった。漫画のサザエさんに出てくるワカメのようにおかっぱの髪型で、花柄のワンピースを着た女の子は、くりくりとした黒い瞳をしていて、小さな花が咲いたように路地裏を明るくさせた。

女の子は店にはお婆さんがいると思ったのだろう。勢いよく店に入って来て、見知らぬ外国人のわたしがいるのを見て、ひどくびっくりした顔になった。私が笑顔で話しかけると、はにかんだ表情を見せ、両手をうしろにまわしてもじもじしている。「パンを買いに来たの?」と言っても、女の子は下目づ私でちらちらと私を見ているだけだ。そのうち、女の子はぷいと横を向いて立ち去ってしまった。

店は暇だった。通りを歩いてゆく人はいるが、近所のおばちゃんや幼い子どもたちが遊びに来るくらいで、品物を買おうとする者はいなかった。

 夕方近くになると、黒いワンピース姿の若い女たちがふらりと現れて、タバコやジュース、菓子などを買って行った。私が日本人であるのが珍しいらしく、興味深そうな目で私を見ていた。普通の稼ぎをしている女のようには見えなかった。カラオケ店やマッサージ店では裏サービスとして性を提供している。ゴーゴーバーやコヨーテ、マッサージパーラー、出会いのカフェなど女を愉しむ場所は、この街にはいくらでもある。恋愛を生業としているすれた女たちだが、出勤前の彼女たちは素朴で可愛らしかった。

 昨日の女に会えないかと密かに願う自分がいた。そして、それは現実のものとなった。

 数人の若い女のグループがお菓子を選んでいる時に、一人の女が「やあ、ジェシカちゃん。このあいだはありがとう」と声をあげた。ジェシカと呼ばれた女が店に入って来た。一瞬、私と目があった。心臓を鷲づかみにされたようにどきりとさせられた。私の驚きが女にも伝わったのか、大きく目を見開き、心が慄くのを感じた。透き通った海の青が女の目に映っている。昨日の女だ。

 その時、お婆さんが店に帰って来た。女の子たちは口々に私はいったい誰なのかを訊ねている。お婆さんは何やら言ったが、私には聞き取れなかった。そのうち、ジェシカは女の子たちと一緒に店を出てゆく。

「なあ、あんた、なにを見てんねん」とお婆さんが言った。「ジェシカちゃん、綺麗やろ」。私は返事に困った。「あんたは真面目な人やな。けどな、あの子はあかんで」。

 なぜ、あかんのか、その理由を知りたかったが、お婆さんはそれだけ言うと、手に提げたビニール袋から手羽先を取り出し、「お腹が空いたやろ。お食べ」と差し出した。

 

 

 店番が終わり、部屋に戻ると何もすることがない。テレビもなければパソコンもない。音楽もなかった。ひとり天井を見上げ、そして目を閉じた。あのころも、こんなふうに過ごしていた。会社を内部告発し、私は留置所に閉じ込められた。コンクリートと鉄格子の中に入れられ、自分はもう死ぬしかないと考えていた。しかし、あれから私は出所し、普通に仕事をし、恋愛もしてきた。過去のことは隠すつもりはない。しかし、犯罪歴があることを知ると人との関係にひずみが生じてくる。それが面倒なので私は口を閉ざして生きて来た。タイはいい。私に犯罪歴があることを知っても、気にする者はいない。

 部屋で寝転んでいると、お婆さんが訪ねて来た。ひき肉と米を混ぜた皿を両手に持っている。

「今日はありがとうな。これはほんの気持や。給料のことは話さなんだな。あんた、一日にどれくらい欲しいねん」

 正直、給料のことは考えていなかった。いりません、と言うと、お婆さんは「そうか」と言って、うれしそうな顔をした。

 私はお婆さんを部屋に招き入れ、部屋の真ん中に座ってもらった。お婆さんは正座をしたまま、「あんた、なんで旅をしているんや」と興味深そうな目で私を見た。

「どこにも行くあてはありませんし」

「ほんまにひとりやな。どこに行っても誰も待つ人がいないことはつらいことや。うちはミャンマーの出身や。八歳で売られてパタヤで売春をしておった」

 えっ、と思った。

「売春がどないかしたんか」

「――いいえ」

「逃げ出してもすぐに連れ戻された。膣が大きく広がる注射を打たれて、西欧人や日本人を相手にしておった」

「――――」

 お婆さんの顔に苦しみが浮かんだ。

「十八歳になって、自分で金を稼げるようになって田舎に帰ったけど、家には誰も住んでなんだ。それがこれまでの生涯でいちばん辛かったことや。自分を金で売った親やけど、うちはお金を持って家に帰ったんや。親が喜ぶと思うてな」

 お婆さんは今にも泣き出しそうな顔をした。私にはどうすればいいのかわからなかった。東京にいたころ、風俗嬢や有名なAV女優と付き合っていた。だが、彼女からは悲惨さはまったく伝わってこない。それらはすべて自分が選んだ道であり、結果だからだ。

「済まなんだな――」。お婆さんはそう言い残して立ち上がった。

 お婆さんを玄関先で見送った。その時、二階から花柄のワンピースを着た少女が見えた。私が駄菓子屋で店番をしている時に最初に尋ねて来た、くりくりとした黒い瞳の女の子だ。

「ほら、ソン。早くしろ」

 少女の頭を小突く男が横に立っていた。あっ、と声が出た。このスラム街に入り込んだ私に白い粉を売りつけた浅黒い男である。私が気づくと同時に、男が二階にいる私を見上げる。まわりの空気が凍りついた。背筋に戦慄が走る。男の目には恐ろしく暗いものが光る。男は私を見ても素知らぬ顔をした。少女の肩を抱き、路地裏へと消えて行った。

 

 

 あの男が私の部屋の真下に住んでいるということは恐怖だった。ソンと呼ばれた女の子は確かに、あの男の子どものように思えた。

 ひとり部屋で寝転がりながら目を閉じていると、隣の部屋から女の喘ぎ声が聞こえてくる。その声は一時間ほどで止み、部屋から人が出てゆく気配が感じられた。しばらくすると再び声が漏れて来た。今度は違った女の声だった。どうやら隣の部屋は売春宿となっているらしい。久しく女を抱いていない。自分の中で女への狂おしい欲望が渦巻いた。

 息苦しかった。生きるということは苦しみだった。色と欲の苦しみ。満たされない心の渇き。そして、私の人生は孤独との苦しみだ。死を見つめ続けることで、生を感じようとしていた。だから戦場に向かったのだ。首がもげ、腹から腸が飛び出した死体。綺麗な皮膚の下は血と肉の塊だった。人間は、市場で売られている臓物と同じ。

私は部屋を出た。スラム街は薄暗く、今にも幽霊が出そうな不気味な気配が漂っている。細い路地を抜け、バス通りを越え、いつまでも歩き続けた。暗闇の中に眩しい光が零れていた。近づいてみると、屋台が連なり、多くの人々で賑わっていた。巨大な市場だ。タライの中には大ナマズや魚が生きたまま売られ、カエルやドジョウ、昆虫も売られている。狭いオリにたくさんのガチョウが詰めこまれ、豚の頭が店頭に山積みにされ、その隣では中学生くらいの女の子がギロチンのような包丁で肉をさばいていた。青々とした野菜が売られ、色とりどりの果物が軒先を彩り、それらの上を裸電球が驟雨のように照らし、祭りのように艶やかだった。

私は朗らかな気持ちになるのを抑えられなかった。煌々と灯った明かりの一つひとつが私に語りかけてくれる。私は微笑を浮かべ、夜の市場を彷徨い続けた。

野菜も肉も驚くほどに安く、しかも量があった。私は手さげカバンにカレーのルーが入っていたことを思い出し、カレーの具材となるものを買い求めた。

私は満たされた気持で家路を急いだ。夜道を歩いていると、街灯の下で髪の長い女が携帯電話で話をしている姿が見えた。遠目でもエキゾチックな顔立ちをはっきり見て取れることができた。あの女だった。

ジェシカはくるりと背を向けて夜道を歩き始めた。私も自然と後を追った。何をしようというわけではない。ジェシカは私と帰る同じ方向を歩いている。ただ、それだけのことだった。ジェシカは携帯電話を右耳にあてながら歩いている。左肩にショルダーバッグを掛け、ひざ上二十センチもありそうな白いミニスカートを履いている。なんて形のいい脚なんだろう。つんと盛りあがったお尻も美しく、たまらない欲望を抱かせた。

ジェシカは私と帰る方向とまったく同じだった。近所に住んでいることは確かだが、どこに住んでいるのか知らない。彼女の家を突き止めたい。そんな衝動にかられた。そのうち、私の部屋が近づいてきた。もしかしたらジェシカは私が後をつけているのを気づいているのではあるまいか。その懸念が強く私の心を刺した。ジェシカの背中がじっと私を見つめているようにも感じた。彼女の背中に別の生きものが棲んでいて、私を静かに見つめていた。寒々とした暗闇を宿し、それでいて温かく、居心地が良く……。

とうとう私の部屋の前まで来てしまった。信じられなかった。私の部屋の真下、あの目つきの悪い男とソンが暮らしている部屋へとジェシカが入って行った。

 

 

 翌日、駄菓子屋の奥にある小さな厨房でカレーを作りながら、ジェシカはあの目つきの悪い男の女房で、ソンは二人の子どもなのだと思った。深い失望を感じた。無力感に襲われた。しかし、自分はいったい何に期待をしていたのか。

 店はいつもながら暇だった。玄関先で、「おばちゃん、おばちゃん」と呼ぶ男の声がした。厨房から外に出ると、二十歳くらいの若い男が突っ立っていた。白いシャツを着た痩せた男だった。極道のような風体をしているが、気弱なものが感じられた。

「あんたは誰や」と男は言った。

「おばちゃんに頼まれて、店番をしている者です」

「そうか。ジェシカを知っているか」

「ええ」。私は正直に答えた。いったい、この男はジェシカの何なのか。

「部屋に行ってもおらなんだから、あんたに頼みたいんだが」と男は言葉を濁し、雑に折りたたまれた紙きれを渡しに差し出した。「私の電話番号や。ジェシカに直接、渡して欲しいんや」と男は言った。

「わかりました」

 男は立ち去るかと思ったが、「ええ、匂いやな。何を作ってるんや」と言って、厨房を覗きこんだ。

「カレーです」

「そうか。なあ、一杯、ごちそうしてくれんかのう」

「わかりました」

 私はこの街に来て初めて自分が認められたような気がした。野菜や肉がたっぷり入ったカレーを男に差し出すと、ガツガツとうまそうに食べた。朝から何も食べていない様子だった。男からは何か切迫したものが伝わって来た。ジェシカの恋人といった感じではないが、何か親しい間からを感じる。友だちなのだろうか。

 男は食べ終わると、満足そうな笑顔になり、「ああ。うまかった。こんなにうまいものは食ったことがない」と言って、千バーツ紙幣を差し出した。私は断ったが、男は「まあ、ええやないか。うまかった」と私の手に紙幣を握らせる。男は「ほな、頼んだぜ」と言って、表へと駈け出して行った。

 男の背中から何かに追われている気配がした。私は千バーツ紙幣と電話番号が記されているらしい紙きれをポケットに入れ、自分が食べるカレーを用意した。カレーを食べながら店番をしていると、通りの奥から、おかっぱ頭の、目がくりくりとした少女が現れた。ソンは好奇心に満ちた明るい目で私を見つめている。「カレーを食べる?」といった仕草を示すと、彼女は照れながら身体をくねらせる。私は厨房に入り、カレーを持って再びソンの前に現れる。彼女は大喜びで駆け寄って来る。私はカレー皿とスプーンを渡す。ソンは私の隣に座ってカレーを食べ始めた。

「おいしい、おいしい」とソンは、カレーをぱくぱくと食べた。カレーを食べ終わると、あれほど人見知りをしていたソンが急になついてきた。

「なあ、おっちゃん、日本でカメラマンをしとったんやろ」

 どきり、とさせられた。私がカメラマンをしていたことは、ここのお婆さんにしか言ったことがない。どこで、どんなふうに私のことが伝わっているのか。

「おっちゃん、カメラマンやったら、ディズニーランドに行ったことある?」。ソンが無邪気な笑顔を向ける。

「ああ、行ったことがあるよ」

「じゃ、ミッキーとお友だち?」

「お友だちかなあ……」

「ほんと、すごいね」

「ミッキーは誰とでも友だちになってくれるよ」

「うわー、あたしも?」

「そうだね」

「ねえ、おっちゃん、ミッキーの絵を描いて」

 ソンはポケットから折れて小さくなった赤いクレヨンを取り出し、私に無理やりに押し付けて来た。私は店の奥から古新聞紙を持ってきて、赤いクレヨンでミッキーの絵を描いた。私が絵を描いている間、ソンは頬づえをつきながら楽しそうにしていた。彼女にとって、ディズニーランドとは遠い夢、天国みたいな世界なのだろう。おそらく、ソンだけでなく、このスラム街にいる人たちは一生、ここから出ることはない。海外旅行にも、バンコクに建ち並ぶ高層ビルや高級デパートにも行くことはないだろう。

 私は以前、ディズニーランドでキャストをしていたことがあった。私に与えられた役柄はカメラマンだった。どんなに暑い夏の日も、汗が吹き出し、顔じゅうが塩で真っ白になっても、自然な笑顔でゲストの写真を撮ることができた。氷のプールに入っているような寒い日も手袋もせず、マフラーもしないで、素手でゲストの方々とふれあっていた。手の温もりをゲストに伝えたかったが、氷を握っているみたいに私の手は冷え切っていた。それでも私は楽しかった。どこにも行く場所のない、前科者の私を拾ってくれた東京ディズニーランドに私は深く感謝していた。私はディズニーのキャストを辞めたが、今でもディズニーランドのカメラマンだ。

 ミッキーの絵を描き終えると、ソンは飛び上がって喜んだ。うれしかった。ただ、それだけのことが――――。

 私がソンと遊んでいると、不意にジェシカが店にやって来た。昼間の明るい光の中で見るジェシカは素朴な輝きに満ちていた。化粧っ気のないジェシカは優美な百合の花が咲いたようにまばゆく、なんとも美しい。

 ソンはジェシカを見るなり、「お姉ちゃん」と叫んだ。

お姉ちゃん? 親子ではないのか? ジェシカは二十二、三歳に見えるから、ソンは一七歳のころに産んだ子どもになるが、タイでは珍しいことではない。それは私は勝手に思っていただけのこと。ソンとは姉妹なのか? それではあの目つきの悪い男は何なのだ。

ソンは早口でジェシカに話しかけたた。カレーをごちそうになったことを言ったのだろう、ジェシカは私の顔を見て軽くおじぎをした。

「そういえば、さっき、あなたに渡して欲しいと若い男の人が現れました」。私は男から頼まれていた紙きれをジェシカに渡した。ジェシカは紙を広げ、目の端に穏やかな色が満ちて来た。

「ありがとう。シンイチさん。さっきのな、うちの弟やねん」

 ジェシカの声が思いのほか幼い声だったのと、なぜこの女が私の名前を知っているのか、二つの驚きが重なり、私は言葉を失った。さては、あのお婆さんが言ったのか。

 だが、思いのほか、ジェシカと笑みを交わすことになり、私は安らぎを覚えた。

 ジェシカは礼を言い、「それから…」と言って、私の顔をじっと見つめた。「このあいだ、あんた、うちの後を付けとったわね。あんなことせえへん方がええよ。みんな、あんたのこと、みんな見てんねんやからね」

 顔が赤くなるのを感じた。火が出たように、恥ずかしさで一杯になった。この女にはちゃんとわかっていたのだ。しかし、あの時、どう見ても、この女は一度たりとも私を見ることはなかった。なぜ私が後をつけていたことがわかったのか。

「あんたのカレー、今度はうちにも食べさせてね」

 ジェシカは柔らかな微笑を浮かべ、ソンの手を引いて店から出て行った。

 

 

一週間が過ぎた。バンコク郊外のスラム街は私に奇妙な安らぎを与えてくれた。暗くて温私闇。夕方になって店番の仕事が終わると、ソンは私の部屋にまで遊びに来るようになった。

「おっちゃん、ミッキーを描いて」。

 もうどれだけミッキーを描いたのかわからない。ミニーちゃんやドナルド、ダッフィーも描いてあげた。ソンは、キャッキャッと大喜びした。

「おっちゃん、お話して」

「お話し……何のお話がいい?」

「ミッキーの、ミッキーの、お母さんはどこにいるん?」

「―――――」

 ディズニーのキャストをしていたころの記憶が蘇った。ディズニーのキャストは、ゲストに対して「知りません」と答えてはいけない。

「ミッキーのお母さんかあ。おっちゃんは会ったことはないけどな、どこかにいるんだろう」

「ミッキーは、お母さんに会えんでさみしないん?」

「そりゃ、さみしいな。でも、さみしいことはないんだよ」

「なんで、なんで、ミッキーは、お母さんに会えんでさみしないん?」

「それはな、魔法の国の住民がぜんぶ家族だから。ミニーちゃんやドナルド、ダッフィーだけじゃない。魔法に来てくれるお客さんたちも、みんな家族さ」

「おっちゃんは、さみしないん?」

「えっ」

「いつもひとりやろ」

「…………」

「おっちゃんは、さみしないよ。いつだって夢の国の住人だからな」

 私はそう言いながらソンの目を見ていた。曇りのない澄んだ目をしている。まっすぐ突き刺すような透き通った視線。ソンは六歳ということだった。本当だったら学校に行っている年齢だろう。

 不意にバンコクの街角で物乞いをする子どもたちの姿が見えた。売春のメッカ、ナナプラザやソイカウボーイの歓楽街に行けば、深夜の路上でコップを前に、みすぼらしい服を着た子どもたちが座ったまま、首を胸に深く垂れながら眠っている。深夜の二時。

学校にも行けて、自分の部屋があり、冷暖房もそろい、三食を十分に食べることができて、日本の子どもたちは自殺してゆく。

 私は自分でも知らないうちに古新聞にティンカウベルを描いていた。

「お姉ちゃんや」とソンが声をあげた。「お姉ちゃんの背中におる」

 私は自分が描いたティンカウベルの絵を見つめた。フェアリーだ。これがジェシカの背中にいるのか。

「おっちゃん、ジェシカ姉ちゃんのこと好きやろ」

「えっ」

「お姉ちゃんも、おっちゃんのこと好きやで」

「――――――」

 ソンはそう言って部屋から飛び出して行った。私は後を追いかけた。ソンが階段を駆け下りてゆく。その時、下の部屋から鋭い女の声が聞こえた。

「はよ、出ていけッ――、」

 ドアが勢いよく開け放たれる。男が転がるように表へと飛び出し、怒りの表情のジェシカが後に続いた。ジェシカは男の胸に十数枚の紙幣を投げつけ、「こんな端金、受け取れるかッ――、なめとったら承知せえへんでッ――」と大声で怒鳴った。

 五十歳過ぎの頭の禿げた小柄な男はたじろぎ、冷や汗を垂らした様子で、「まあ、まあ」といった仕草で両手を前に押し出していた。

 白の薄いタンクトップ姿のジェシカは仁王立ちになり、「はよ帰れッ、阿呆ッ――。けった糞悪いッ――」と凄まじい形相で男を睨んだ。一瞬、階段の上で呆然と立ち尽くす私と目があった。ジェシカは恐ろしい目で私を見据え、怒りのこもった手でドアをピシャリと閉めた。

 

 

 今日は休みだった。しかし、休日になってもどこにも行く場所も、誰も訪ねる人もいない。朝から部屋で寝転がっていた。下の部屋には誰もいる気配がしない。ジェシカもソンも、あの目つきの悪い男も、ずっと同じ部屋で過ごしているわけではないようだ。ではいったい、あの三人の関係はどういうものなのか。隣の部屋は終始、人がいないようだった。

蒸し暑い部屋で寝転がっていた。夕陽の気配が窓から忍び込んでくる。ふっと、このスラム街に入るきっかけとなった貨物線のことが気になった。あの線路はどこまで続いているのだろう。そう思って体を起こし、私は部屋を出た。

線路はどこまで歩いても同じ風景だった。線路の両脇を粗末なバラック小屋が建ち並び、雑草が生い茂っている。バナナや椰子の樹が線路の上を覆う。

線路の脇に座り、汚れた人形を抱きながら一人で遊んでいる女の子がいた。ソンと同じくらいの年齢だろう。私を見るとにっこり微笑み、「汽車は来ないから大丈夫よ」と言った。

「汽車はもう来ないの?」

「今日はもう来ないわ」

「ありがとう」

それだけの短い会話だった。女の子は再び、一人でうつむきながらお人形遊びを始める。線路を歩いている見知らぬ外国人のことを、彼女は気にかけてくれたのだ。涙がすっと私の頬を伝った。

線路に沿って歩き続ける。広い道路に出た。右手に大きな倉庫街が見えた。そこは港だった。港には大きな二隻の貨物船が浮かんでいた。潮の香りがする。バンコクに海があったのかと思いながら、ふらふらと波止場にまで引き寄せられていった。

夕暮れが迫っていた。西の空は薄赤く色づき、水面には薄桃色の光が浮かんでいる。貨物船は、バースディケーキのような明るい光に包まれていた。

港に青い靄が漂い始めていた。東の空には、幾つかの星が瞬いていた。私は護岸に座り、暮れてゆく空と海を見ている。夕闇が色濃く漂い始めた空には数羽の鳥が旋回している。その時だ。一羽の鳥が鳴き声をあげることもなく、翼をたたんですっと真っ直ぐ一直線に下降し、波の上に落ちた。続いて二羽、三羽と続けさまに水面へと落下して行った。何ごとかと思ってまわりを見渡すと、暗くなりかけた波止場の端にひとりの男がたたずんでいる。堤防に沿ってゆっくり男に近づく。男の顔に見覚えがあった。あの目つきの悪い男である。男は背筋を伸ばし、両手を真っ直ぐ海へと突き出し、何かを両手で握りしめている。その先にあるのは拳銃だった。ぎょっとした。男は数百メートルも離れて旋回している鳥を標的に射撃の練習をしているのだ。初めて見る拳銃だった。私は息を殺し、後ずさりをしながら男から離れた。何度も振り返り、男の姿がないことを確かめると、一目散に走った。

 

10

 

 息をぜいぜいさせて部屋に戻ると、お婆さんが正座をしながら私の帰りを待っていた。私はまだ興奮から冷めていなかった。全身を汗でびっしょり濡らした私の姿に、お婆さんは驚き、「何や、何かあったん私な」と言った。私は息苦しくて、すぐに話すことができなかった。床に両手をつき、ぜいぜいと肩で息をし続けた。

 お婆さんは麻の袋からペットボトルに入った水を差し出した。私は蓋を開け、一気に喉に水を流し込んだ。生き返った気がした。

「ほんまに、あんた、どうしたんや」

「……いえ」

「そうか。あんたな、こないだジェシカちゃんの後をつけとったやろ」

「えッ、」

 なぜ、このお婆さんまで私の行動を知っているのか。あの時、まわりには誰もいなかったはずだ。

「あんたは日本人や。なんで金持ちの日本人がこんなとこに住んでんのか。みんな、あんたのことよう見てるんや。それ忘れたらあかんで」

「ええ」

「ジェシカちゃんはあかんていうたはずや。あんたトニーの怖さを知らんのや」

「トニーですか」

「そうや。ジェシカと一緒にいる男や。この下の部屋におる。極道者や。あんた、トニーには気をつけた方がええ」

「……そうします」

「そやないと、あんた命(たま)とられるで」

「――――」

 お婆さんは私の顔をじっと見つめていた。まるで私の様子をうかがうような目つきだった。

「ところでな、今日はあんたに頼みがあって来たんや。ラマ4世通りにロータスがあるやろ。あそこに夕方八時ちょうどに行って欲しいんや。あそこに、フードコートがあるやろ。サッカーのテレビゲームの前にあるテーブルの下にガムテープで張った封筒があるから、それを取って来て欲しいんや。一番奥にあるテーブルや」

「…………」

「ただし、人に見つからんように頼むで」

「……あそこはいっぱい人がおりますし、見つからないようにというのは……」

「そやから、あんたに頼んでいるんや。頼んだで」

「……わかりました……」

 お婆さんの好意でこの部屋に泊めてもらっている手前、断るわけにはいかなかった。八時……。もう時間がない。急がなくては。おそらくそれは、覚せい剤密売の代金回収にちがいなかった。もしかしたらお金ではなく、覚せい剤そのものが入っているのかもしれない。タイでは覚せい剤の密告奨励制度がある。警察と密告者はグルになっていて、間抜けな日本人を唆し、覚せい剤を持たせたところで張り込んでいた警察に囲まれて御用となる。密告者には報奨金が入り、警察もその一部を手にする。

はめられた者は物的な証拠があるので、知らないでは済まされない。刑務所行きは間違いないが、死刑になることも多い。留置所に入れられたら、もう二度と出られないかもしれない。

 しかし、もうここで終わってもいいのかもしれない。私には安住の地などはない。

 私はもう一度、お婆さんの目を見る。苦しみに満ちた目だった。封筒の中身は覚せい剤ではなく、本当にお金なのかもしれない。私は一瞬、このお婆さんを救いたいと思った。

「わかりました」

「ほんまか……」

 お婆さんは深く目を閉じ、安堵の表情を浮かべた。

 

 

11

 

 暗いスラム街を抜け、どぶ川を渡った。夥しい数のクルマやバス、オートバイが行き交うラマ4世通りに出た。巨大ショッピングセンターのロータスが白い光に照らされて煌々と光り輝いていた。スラム街の暗闇に慣れていたので、ショッピングセンターはまるで巨大なUFOの母船のように見える。

 もう時間がない。私は駐車場の出入り口からロータスに入った。一階はレストラン街になっている。エスカレーターを駆けあがる。二階は量販店。フードコートは三階だ。一気に三階まで昇った。右手には二〇軒ほどの店が並び、左手にはゲームコーナーがあった。正面には一〇〇席以上のテーブルがずらりと並んでいる。夕食のピークは過ぎているが、家族連れや学生、化粧品販売店の女や勤め帰りらしい独り者の男たちで賑わっていた。誰にも見つからずに金を上手く持ち帰ることができるのか……。

 まわりを見まわすが、警察らしい者はいない。張り込んでいるとすれば私服警官だが、それらしい者はいない。もしかしたらどこかの影に潜み、まわりの様子をうかがっているのかもしれない。腕時計を見た。あと三分で八時である。

 左側のゲームコーナーを見た。モグラたたきや、子どもがまたがって遊ぶ遊具、エアーホッケーやダンシングのゲーム機が並んでいた。テレビゲームはここにはなかった。私はフードコートの中央に向かって歩いて行った。

 誰かの視線を感じないわけにはいかなかった。全身の毛孔から恐怖が噴き出した。フードコートの中央にゲーム機が並んだ一角があった。六台のテレビゲームが並んでいる。手前のゲーム機に小学生らしい男の子が座っている。残りのゲーム機には人の姿はなく、ピコピコという機械音を虚しく響かせている。

一番奥のテレビゲームを見る。画面にはサッカー選手がボールを蹴っている姿が映し出されている。ところが、予想しないことが起きた。サッカーのテレビゲーム機の前にあるテーブルには、赤いベストを着たモータサイの男が食事を終え、スマートフォンでメールを打っているのである。男は浅黒い肌で、体格も良かった。私は少し離れたところでいらいらしながら立っていた。三分、四分と時間が過ぎる。約束の時間である八時は過ぎた。心臓が破裂するくらいに苦しかった。モータサイの男は私をちらりと見遣った。いぶかしそうな目つきである。私の顔はよほど険しかったのだろう。男は視線をずらし、スマートフォンの画面を凝視した。

この男がテーブルの下の金に気が付いたらどうすればいいのか。もう金を盗んでしまった後なのか。気が気でなかった。殴ってでも男を蹴散らしたい気分に襲われた。

それからも私は待ち続けた。男が席を立ちあがったのは、それから十分後のことだった。私は慌ててテーブルの下をまさぐった。手のひらに封筒のような感触を得た。私は勢いよく封筒を引きはがした。ガムテープで固定されているらしく、封筒をすぐに引きちぎることができなかった。私はもがいた。力づくで引きはがそうとした。勢い余って手前にあるイスが騒がしい音を立てて転げた。今まで私に何の気を止めることなく食事をしていたまわりの人々が一斉に手を止めて、私を注視した。その瞬間、封筒がはがれた。私は封筒をズボンのポケットにねじ込み、一目散で駆け出した。走りながらエスカレーターを降りた。転びそうになって、前のめりになった。後ろを振り返った。誰も追いかけてくる気配はなかった。私は必死に駆けた。見なれたスラム街の路地にまぎれ、追手を巻くように細い路地を複雑にまわり込みながら、ようやく自分の部屋に辿り着いた。

ドアを開けて部屋に入ると、お婆さんが正座し、壁に向かって両手を合わせていた。私は足を震わせながら立ち尽くしている。

お婆さんが私の気配に気づき、振り返った。お婆さんは泣いていた。熱いものが私の中から込み上げてくるのを感じた。手を合わせるのは私の方だった。どこにも行き場のない私を救ってくれたのは、身体を売って、ぼろぼろになるまで働き続けた、この一人の老いた女性だった。

「……済まなだなあ……」

 お婆さんは涙声で、声を詰まらせた。

 私は肩で激しく息を切らせ、ズボンのポケットに突っ込んだ封筒を右手で取り出し、お婆さんに渡した。お婆さんは両手を合わせながらお金を受け取った。

「……数は数えていませんので、中身を確かめてください」

 お婆さんはしわくちゃの手で封筒の端をちぎり、紙幣を数えた。千バーツ札が十枚。

「……済まなだなあ……ありがとう……」

 お婆さんは紙幣を両掌に乗せ、仏のように何度も何度も私に頭を下げ続けた。

 

12

 

 翌朝も私は店番をしていた。私の作るカレーは近所でも評判になった。昼時には三〇食限定でカレーを売るようになった。

 奥さん連中とも仲良くなった。カレーが上手なイープン(日本人)と呼ばれるようになった。知らない街が、こうして少しずつ知っている街になる。

 店が終わり、ナイトマーケットへ夕食の材料を買いに行った。具材を買って、どぶ川に架かる橋を渡ろうとした時、突然にスコールに見舞われた。雨が針のように川面に突き刺さる。

私は肩から掛けたカバンから折りたたみ傘を取り出し、空に向けて広げた。スコールは白い魔物のように傘を強く揺さぶった。スコールの勢いは凄まじく、傘の骨が砕けてしまいそうだった。

誰かが勢いよく駆けこんで来た。肩で大きく息をしている。長い黒髪の先から、雨の雫が滴っている。化粧の香りが、私の鼻腔をくすぐる。女が顔をあげる。私を見つめる。びっくりするほど綺麗な目。卵型の凛々しい顔に、雨の雫が光っている。

「ちょっと、そこまで入れて」

 ジェシカの口もとに微笑が広がる。美しい顔立ちをしている。白いブラウスは濡れ、豊かな乳房が内側から高く押し上げていた。雨に濡れたジェシカは、匂い立つような色気を放っている。私の中で、切ない何かが揺れ動くのを感じた。

 私は無意識のうちに彼女に触れようと手を伸ばした。ジェシカがくるりと背中を向けた。雨に濡れてへばりついたブラウスの薄い布地を通して、ジェシカの左肩に描かれたタトゥーが透けて見える。はっきりとした絵柄はわからないが、鳥のように見えた。

 ジェシカは振り向き、私の目を見つめ、そして目を伏した。〝暗いもの〟が表情に滲み出ている。透き通るような女の目を私も見つめている。

「あなた、綺麗な顔立ちをしているわね」

 ジェシカの右手が伸びて来て、私の頬を撫でた。

 その時だった。ジェシカがいきなり私の首に抱きつき、私の唇にキスをした。激しい、情念が籠もった接吻だった。私は傘を落とし、雨の中で夢中でジェシカの身体を抱いた。闇の中から白い薔薇がこぼれた。心の慄(ふる)えが青白い霊の炎となって、ふたりの身体に乗り移った。

ジェシカの柔らかく尖った胸をみぞうちのあたりに感じた。ジェシカの若く、張りのある乳房を鷲づかみにしながら接吻を続けた。ジェシカの口から白い吐息が漏れる。ジェシカが身体をくねらせる。

 息が詰まるような激しい接吻だった。ジェシカは澄んだ声を放つ。この女を求めないわけにはいかなかった。

 狂ったように女を抱いた。彼女のスカートの下に手を伸ばした時、ジェシカは強い力で私を跳ねのけ、橋を渡って向こう岸へと駆けて行った。雨の膜の中に彼女は消えた。

 暗闇の中で私は呆然と橋の上に立ち尽くしていた。

 

13

 

「ちょっと、ええかな」

 思いがけない顔が覗きこんだのは、翌日に店番をしていた時のことだった。下の階に住む、あの目つきの悪男、トニーだ。

 昨夜のジェシカとの抱擁を思い出し、私は幻想の中に浸っていた。それを見透かしたようにトニーが現れた。背筋がぞっと凍りついた。

 トニーは私の承諾もなしに、ずかずかと店に入り込んできた。店に並んだ駄菓子を一瞥し、鋭い目つきで私をじっくり見遣る。

「あんたに、頼みがあって、来たんや」

 トニーの白目が充血している。薬物に汚染された濁った目。自分で望まない方向へと押しやられてゆくのを感じだ。どれだけ人間を拒否しても勝手に人間は近づいてくる。身勝手な利益のために翻弄され続ける。しかし、それを断っては生きていけなかった。

「何でしょうか?」

「おっ、頼みをきいてくれるか。今からチャイナタウンに行って、パソコンを買うて来て欲しいんや」

 トニーはそう言って、豹柄の黒いシャツの内ポケットからしわくちゃになった千バーツ紙幣の塊を取り出し、私に差し出した。

「数を数えてくれるか」

 私は紙幣を受け取り、震える手で枚数を数えた。かなりの枚数だ。十枚、二十枚……。ぜんぶで四十枚だった。

「四十枚だと思いますが」

「おおそうや。四万バーツある。それでパソコンを買うて来てくれたらええ」

 トニーは濁った目で私を見据えた。

 嫌な予感がした。四万バーツ。約十二万円。チャイナタウンではこの金額で人殺しも頼める。拳銃も買えるということだった。

「いやか」

 トニーが険しい顔つきで私を睨んだ。

「――私には店番がありますし……」

「店なんかええ。私から、あのババアに言ってやる。今すぐ行って来て欲しいんや」

「――しかし、」

「あんたには、千バーツを渡してある。あれじゃ、少ないか」

 私はどきりとさせられた。これまで私を見ても、まったく知らん顔をしていたが、トニーは私のことをはっきりと覚えているのだ。

「悪かったな。気がつかんで」

トニーは私に千バーツ紙幣を握らせていた。最早、逃げ場がなかった。

「で、どこへ行けばいいんですか」

「おっ。やっぱり、あんたは、ええ男や。ジェシカがあんたのことを褒めとったが」

 一瞬、私の心は躍りあがりそうになった。だが、これはトニーの罠であることは明確だった。昨夜の抱擁をトニーは勘ぐっているのではないか。この男には蛇のような執念深さが滲み出ている。ジェシカは私のことでトニーに何か話しているのか。

「ジェシカが、あんたのことを気に病んでしかたない。こんなスラム街になんで日本人が一人で住んでいるのやって、あんたのことばかり話しとる」

 トニーは容赦なく私をいびり始めた。私は唇を噛み、下を向いた。しかし、それは身体全身でジェシカへの好意を晒すことになった。私は覚悟を決めた。

「どこに行けばいいんですか」

「ここに行ってくれ」

 トニーは紙きれを私に見せた。チャイナタウンのメーンストリートであるヤオワラート通りから奥に入ったところに印が付けられている。

「しなびた電器店や。頼んだで。ところで、あんたのカレー、今度食わしてくれるか」

 トニーは不気味な含み笑いをして店から出て行った。

 

14

 

ロータス前のバス停で507番のエアコンバスに乗り込んだ。渋滞のラマ4世通りを過ぎ、四十分ほどでチャイナタウンに着いた。横浜の中華街と同じような派手な看板が建ち並ぶ。ヤオワラート通りから路地に入ると、路上にガラクタが売られている。羽根の壊れた扇風機や片手の取れた人形、取っ手が取れた鍋。いったい、誰がこんなものを買うのだろう。

 トニーから渡された地図を頼りに路地を突き進んだ。曲がりくねった路地の奥に、トニーが指定した電器屋が見えた。スクンビット通り沿いにあるような古びた電器店だ。店頭には電球や扇風機などが並んでいる。だが、異様な気配がたちこめていた。不吉な空気がこもっている。

 中に入るのはためらわれた。自分の中から、「行くな」と言う声が聞こえる。だが、店の奥から黒い手が伸びて来て、私の喉にナイフを突き付ける。恐ろしく目つきの悪い老人が目の前に立っていた。老人は白髪で、痩せこけている。皮膚はするめのように硬く、見るからに妖艶な雰囲気を放っていた。

 トニーの使いの者だと告げると、老人は〈奥に入れ〉といった仕草で後ろを向き、店の奥へと私を招き入れた。板張りの部屋には到る所に戸棚が置かれ、様々な形のノートパソコンが山積みにされていた。A4版サイズからB5のサイズ、もっと小さなパソコンまで並べられている。私は俄かに胸騒ぎを覚えた。

 老人は戸棚の上にあったパソコンを取り出し、〈売れ取れ〉というように私の胸の前に突き出した。私は言われた通りにパソコンを両手に持った。ずっしりとした重量感があった。まるで鉄で作られたパソコンだった。

 私はトニーから預かった金を老人に渡した。老人は紙幣の数を数えることなく、しわがれた手でポケットに突っ込んだ。そして、〈帰れ〉というように手で追い払った。

 私はパソコンを小脇に抱えて、店を出た。ぎらぎらとしたバンコクの暑い日差しが容赦なく照りつけていた。全身から汗が噴き出した。

 誰かが背後から追って来る。恐怖が津波のように襲いかかる。私は何度も振り返る。チャイナタウンは人ごみで溢れている。私は背中を銃口で狙われている気がした。

 いたたまれなくなり、パソコンを小脇に抱えて走り出した。必死に駆け出し、行き先も確認しないでバスに乗り込んだ。バスはチャイナタウンを過ぎ、国鉄ファランポーン駅を越えて、シーロムへと向かってゆく。

 3つ先のバス停で降り、無茶苦茶に走り、違うバスに乗った。何度も後ろを振り返り、誰もつけていないことを確認した。

 ようやく私は自分の部屋へと戻った。息が切れた。床に転がっているペットボトルを手に取り、水をがぶがぶと飲んだ。息苦しかった。

 しばらくは床に寝転がり、天井を見上げていた。もう引きもどせないところにまで来てしまったのだ。私は起き上がり、パソコンを両手で抱えて部屋を出た。階段を降り、一階のトニーの部屋を訪ねた。意を決して戸をたたいた。返事はなかった。もう一度、たたいた。いきなり、がらがらと戸が開けられた。トニーの顔が、ぬうっと覗いた。

「おお、ご苦労だったな」

 恐ろしい目が私を睨んだ。

「このパソコンでよろしいでしょうか」

「おお、そうや」

 私はパソコンをトニーに渡そうとした。だが、トニーはパソコンを押しやった。

「これはな、見てもわかるように未完成や。すまんが、あんた、これを組み立ててくれへんかのう」

 顔色が変わるのが自分でもわかった。

「……いえ、私は機械は苦手で……」

 トニーの目の色が一瞬に変わった。

「おおッ―、私の頼みがきけんのかッ。あんたは、私のソンを手なづけ、今度はジェシカに色目か。おおッ――」

「…………」

「あんたをこのスラム街で見かけた時、ええ度胸をしている日本人やと、私は感心した。あんたなら、やってくれると思うた」

 私は下を向いた。トニーは、さらに私をたたみかけてきた。

「それが完成したら、ジェシカをくれてやってもええぞ。いっぺん、慰めたってくれんかのう。ええ身体しとるぞ」

 私の脳裏に、雨の中でジェシカと抱きあった記憶が蘇ってきた。雨に濡れたブラウスに透けていた鳥のような形のタトゥー。ブラウスの内側を豊かに高く押し上げた乳房が、ありありと目の前に浮かんだ。

「どうや、やってくれるか。パソコンの中に組み立て書が入っている。あんたは、その指示通りに組み立てればええ」

 トニーは薄ら笑いを浮かべ、私をじっと見た。

「わかりました」

 私は部屋に持って帰り、パソコンの中身を開いた。説明書が入っていた。完成予想図は、拳銃の形をしていた。

 

15

 

 店が終わると、私はすぐに部屋に戻り、パソコンを分解して拳銃を作り始めた。裸電球がぶら下がる部屋の中で、ひとり拳銃を組み立てる。この国では、拳銃を普通に持っている。タクシーの運転手のうち、何割かは拳銃を持っている。ショルダーバッグに拳銃を入れている水商売の女もいる。

 部屋の扉をたたく音がした。ぎくっとした。私は咄嗟に拳銃の部品を隠した。お婆さんかもしれない。立ちあがって、扉を開けた。

 思いがけない人が立っていた。「あッ」と声が出た。

「何よ」とジェシカが言った。「ちょっと、あがらせてもらってもいい?」

 私は呆然と突っ立っているだけだった。

「シンイチさん、最近ずっと部屋の中にばかり閉じこもってんね。どないかしたん?」

「……いえ、私は――」

「私は何やのん?」

 ジェシカは床に座り、部屋をぐるりと見まわした。

「シンイチさんがここに来てから、どれくらいになるん?」

「……一ヵ月くらいですか」

「もうそんなになるん? なんかもっと前からここにいてはるような気がする」

「私もそう思います」

「なんや、シンイチさんは居場所を探していはるのね」

「居場所ですか」

「シンイチさんは旅立たなくてもいいん?」

「旅、ですか?」

「そうや。どこかに行く途中とちがうん?」

 私はうつむいた。「……どこにも行く場所なんてありませんし――」

「どうして、そんなこと思うん?」

「私みたいな無能な男はどこに行っても仕方がありません」

「シンイチさんはみんなから好かれているよ。必要とされている」

「――いえ、私には、与えうるものは何もありません」

「与えうるものは何もないなんて。難しいことを言はるのね。シンイチさんのおかげで、おばちゃん助かったんよ」

「お婆さんがですか?」

「そうよ。あんた、もしかしたら命(たま)を取られとったかもしれんのよ」

 ぎくりとした。

「シンイチさんの慌てぶり。うふふふ」

「見てたんですか?」

「見てたわよ」

 ジェシカが色っぽい眼差しを向ける。その目に欲情した。私の手は自然とジェシカの肩に伸びた。ジェシカは立ち上がり、含み笑いをしながら背を向け、部屋から出て行った。最後にもう一度だけ、私をちらりと見た。恐ろしく透き通った目だった。

 私は呆然と立ち尽くす。ジェシカと二人きりで部屋で過ごすことができた……。

 しばらくすると、再びドアをたたく音がした。ジェシカが戻って来たと思い、慌てて扉を開けた。お婆さんが立っていた。

「なんや、そんな驚いた顔をして。あたしの顔に何かついてるか?」

「いいえ」

「そうか。ちょっと、あがらせてもらうで」

 お婆さんは、さっきジェシカが座っていた場所に腰をおろした。

「あんた、トニーから何か頼まれてへんか?」

「いいえ、何も――」

 私は咄嗟に嘘をついた。身の危険を感じた。

「そうか。それやったらええ――」

 お婆さんは苦悶の表情を見せた。私は店番を放っておいて、チャイナタウンにまで行ったことを思い出した。トニーはお婆さんに店番のことは言っておくと話していた。すると、お婆さんはトニーと私の間で何かがあったことを感づいているはずだ。それについては一切の追求がなかった。

「ところで、あんた――。どうしてここにいるんや? あんたはどこかに行く途中やろ」

 ジェシカにも同じことを言われた。私はどこかに行きたがっているように見えるのだろうか。

「私には行くところはありません」

「あんたは風や海のように生きる人や。旅立ちなさい。いつまでも同じところにとどまっていては、あんたのためにならへん」

「――――」

「風も海も光も、みんな生きていはわ。生きているみたいに生まれたり、死んだりする。あんたはそんなことを感じるために旅をしているんやろ」

「……………」

 お婆さんが私の前に紙幣を差し出した。「これは少ないけど、これまでの給料や。それから、うちの都合で出て行ってもらうから、これは前の家賃も含まれている」

「いえ、こんなにたくさんは――」

「急なことで済まんが、あんたにすぐ出て行って欲しいんや。明日、出て行ってくれ」

 お婆さんは悲しそうな顔で私を見つめた。

「あんたには済まんことをした――。あんなお金のことで、あんたをずいぶんと危険な目に晒した。あなたがここにいる限り、みんなあんたのことを利用する。あんたはしまいに命を取られる」

 ここから出て行く――。だが、出ていけない理由があった。命を取られるのは怖い。しかし。

 お婆さんは私の心を見透かしたように言った。

「ジェシカは危険なことがわかっていて、あんたに会いに行ったんや。その気持をわかってやってくれへんか」

ただならぬ気配がこめられていた。私には返す言葉がなかった。ジェシカが危険を顧みずに私に会いにきた。狂おしい悦びが込み上げてきた。私がここにいたら、ジェシカが危険な目に遭う。

「わかりました。たいへんお世話になりました」

 私は深々と頭を下げた。お婆さんも頭を下げ、部屋を出て行った。

旅立たなければならない。私は初めての給料を両手にした。最後に、ソンに画用紙とクレパスを買ってあげよう。

 

16

 

 最後の店番だった。朝から近所のおばちゃんたちが顔をのぞかせる。たわいのない世間話をして、自分で話したいことをしゃべれば去ってゆく。学校に行く途中の子どもたちがわいわいと騒ぎながら店に入って来る。そして、明るい声を残して出てゆく。この店から見える細い路地裏。眩しく暑いバンコクの日差し。生活は質素だが、みんなが平等に貧しい。他人をうらやんだり、憎しみあったり、奪いあったりすることもない。いじめで自殺する子どもはいない。

 長い旅の果てにようやくたどりついた安らぎ。しかし、棒に引っ掛かった漂流物が再び川の流れに押し出されて漂い始める。

 私は手に画用紙とクレパスを持っていた。ソンが遊びに来るのを待っていた。しかし、ソンは姿を見せなかった。

 昼下がりになって、若い男が血相を変えて店に飛び込んできた。

「追われているッ、かくまってくれッ」

背中に火がついた、切迫した声に私の心は一瞬のうちに凍りついた。いつの日か店に来たことのある男だ。ジェシカの弟だった。

男は凄まじい勢いで店の奥へと駆け抜けていった。鋭い殺気が私の頬を切り裂いた。

しばらく間があって、数人の男が店になだれこんできた。短パンにTシャツ姿の、一見して極道とわかる風体の男たちだ。男たちは店先の駄菓子を蹴散らし、「今、若い男が逃げこんでこなかったか」と私に迫った。私は「知らない」と答えた。男のうちの一人が私の胸ぐらをつかみ、私の頬を殴った。鼻血が飛び散るのを感じた。私は「知りません」と言った。男たちは私を睨みつけた後、店から出て行った。

私は立ち上がり、奥の部屋へと行った。どこにも人の気配はなかった。台所の奥にある裏戸が開きっぱなしになっていた。

 私の知らないところで、時が動いていた。人との関わりを避けていても、人は容赦なく私を道連れにする。伝染病のように、〝悪いもの〟が私に感染してゆく。

 私は長い時間をかけて、男たちが荒らした店を片づけた。瀬戸物の食器が何枚か割れていた。割れた食器の下に紙幣をはさみ、私は店を出た。

 私は自分の部屋も荒らされているのではないかと思った。部屋に戻ったが、荒らされている形跡はなかった。脱力感に襲われた。床に一枚の紙が丁寧に折られているのに気づいた。私は正座して、紙を広げた。

「きょう、4時に、エカマイのバスターミナルで、まっています。ジェシカ」

 そんな文字が並んでいた。

 ただならぬものを感じた。いよいよ、ここを出て行かなければならない。私はおもむろに作りかけの拳銃を取り出した。ほとんど完成に近かった。

 最後の部品を組み立てると、時間は三時を少し回っていた。私は部屋を片付けた。扇風機や食器など僅かばかりの荷物を部屋の隅に置いた。それから、ソンに渡す画用紙とクレパスも並べた。お婆ちゃんなら、私の気持をわかってくれるだろう。

 これらの僅かなものが、私がここにいたという証明だった。

〈ありがとうございました〉

 私はそれらの物に向かって両手を合わせた。もうここに戻って来ることはない。お婆さんにもう一度会いたかったが、このまま出て行こう。

 完成した拳銃をどうすればいいのか。私は斜め肩掛けのショルダーバッグに拳銃を入れた。これが役に立つかもしれない。私はエカマイのバスターミナルへと向かった。そして、部屋にはもう戻らなかった。

 

17

 

ロータス前から115番のバスに乗り、ラマ4世通りからスクンビット通りへと出た。熱帯雨林の街路樹が青々と茂り、赤や私ンジ、ピンク色のタクシーが走り、私ンジのベストを着たモータサイの男たちがクルマの間を荒々しく通り抜けてゆく。どれもが見なれたバンコクの風景だった。だが、何かが違っていた。

エカマイの長距離バスターミナルに着いた。ジェシカは青いプラスティックのイスに座っていて、私を見かけると大きく手を振った。ジェシカはサングラスをかけ、色鮮やかなマリンブルーのワンピースを着ている。私が近づくと、ジェシカがサングラスを外した。ジェシカの顔は少し強張っていた。笑ったかと思うと、すぐに泣き出しそうな顔になった。ジェシカの中に潜んでいる恐ろしく暗い影が、ふとした拍子に表情に現れる。怯えた獣のような鋭い眼差しが、この女の澄んだ目の中に光る。夕暮れに近いバスターミナルは人影もまばらで、どこか寒々としていた。だが、ジェシカの顔はもっと冷え冷えとしていて、まわりから孤立していた。

ジェシカは立ち上がり、唇をすぼめる。

「―――ごめんね」

「……いいえ」

 それだけの短い会話だけで、お互いにおかれた状況が理解できた。

「やっぱり来てくれたんね。うち、うれしい」

「私も―――――」

 ジェシカは手に二枚のチケットを持っていた。

「一緒に来てくれはるわね」

「ええ、――――」

ふたりで手を取りあい、日よけ用の青いカーテンに窓を塞がれた長距離バスに乗り込んだ。車内にはほとんど人がいなかった。ジェシカが窓際に座り、通路側に私が座った。間もなくバスが動き出した。渋滞の激しいスクンビット通りを抜け、オンヌットを越えたところで高速道路に乗った。道はまっすぐ南へと向かっていた。

ジェシカは何も言わないで窓の外を見ていた。バンコクを出ると、窓いっぱいに緑に覆われた湿原や平原が見えた。

 何から話せばいいのかわからなかった。先に口を開いたのはジェシカだった。

「――ソンね。売られてしもうたの」

「えッ、」

「あいつに売られたの。だから今からパタヤに行くの」

 あいつ、とは誰なのか。

「売られたって、パタヤにですか?」

「置き屋に売られたんよ」

「置き屋ですか?」

「そう。小さな女の子ばかり集まった置き屋。キスやペッティングはなしで、指で勃たせて、本番だけのサービス」

「だって、ソンはまだ……」

「八歳よ。でも売られるの」

 売られるということは、買う男がいるのだろう。

「ところで、シンイチさんは、お婆ちゃんになんて言うて来たの?」

「――何も言っていません。私は今日でクビになりましたので」

「ええッ、それは本当?」

「本当です」

 トニーから頼まれた拳銃のことが不意に頭をかすめる。拳銃はショルダーバッグの中にある。

「おばちゃん、あんたを見ていて、自分の子どもを思い出したんよ。それで、つらなったんね」

「私のことをですか?」

「そうよ。シンイチさんを麻薬密売人に使おうと思っていたんやけど、自分の子どもが運び屋をしていて、裏切りにあって銃で撃たれたんよ。おばちゃん、死んだ息子のことを思い出して、だんだんつらなってきたんよ。そやから、おばちゃん―――」

 そう言いかけてからジェシカの目から大粒の涙がぽろぽろと零れた。あまりにも突然だった。ジェシカは一呼吸を置くと、

「うちの弟、今、狙われているわ」と言った。

「何かあったんですか?」

「麻薬密売のお金を使いこんだから」

 あの時、ジェシカの弟が血相を変えて店に飛び込んできたのは、そういう訳があったのか。

「シンイチさん、うちはもう誰も頼る人が私へんの」

 ジェシカの眉が悲しそうにゆがむ。私はジェシカの頭を抱いた。

ジェシカはぐったりと疲れた表情で目を閉じ、黙ったまま私に抱かれていた。やがて、微かな寝息をたてて眠った。私はジェシカを抱いたまま、窓の外に広がる緑の湿原を見つめ続けた。

 

18

 

 二時間後にバスはパタヤの北バスターミナルに着いた。ターミナルには、軽トラの荷台に屋根を付けたソンテウという小型バスが何台も止まっていた。

ジェシカはマリンブルーのワンピースの裾を持って、ソンテウに乗りこんだ。私もジェシカに続いて荷台に乗った。これから、どこに行くのか、私にはわからなかった。

 ソンテウが動き出した。ジェシカはポールに掴まり、パタヤの低い家並みを見ていた。古びたクルマやオートバイが次々に現れては消えていった。

彼女の長い髪が風になびき、私の頬に触れた。こんな美女と、粗末な乗り物に乗って旅をしていることがとても不思議に感じられた。私は遠く旅をして、この女と出会った。

 ソンテウはノースパタヤロードを進み、ドルフィンロータリーを通った。ロータリーの真ん中には二頭のイルカをあしらったモニュメントが建ち、イルカのまわりを噴水が取り囲んでいた。イルカはじゃれあうように互いに身体を重ねあいながら空へとジャンプしようとしていた。

音を立てて流れる噴水の向こうに、大きな庭が広がる立派な白亜の建物が見えた。広々とした敷地にはヤシの樹が何十本と並び、美しく手入れされた庭園が白い柱の間から見えた。どうやらリゾートホテルのようらしい。

ソンテウがカーブを曲がると、ヤシの樹が連なり、樹々の合間から海が見えた。浜辺には青いビーチパラソルが波のように並んでいる。水着でビーチを歩く白人やタイ人の物売り、ヤシの樹の下で涼んでいる人々が見えた。

 パタヤの歓楽街であるウオーキングストリートの手前で、ジェシカは「降りましょう」と言った。私は無言でうなづき、ソンテウを降りた。

 ゴーゴーバーが犇めくストリートは派手な看板で飾られているが、昼の白い光に包まれて、平凡で地味な通りとなっていた。

 ジェシカはウオーキングストリートをまっすぐ進み、ホテルが連なるプラタムナック通りを抜け、粗末な小屋が並んだ路地裏へと足早に向かった。普通の民家のように見えるが、戸が空いた入り口から幼い子どもたちの不安げな顔が覗いていた。ジェシカは意を決したように一軒一軒見て回り、ソンがいるかどうかを確かめた。ジェシカに続いて私も置き屋を調べた。

 置き屋に並べられた子どもたちは一様に表情が無かった。私たちが飛び込んでも特に驚くようすもなく、テレビを見ているだけだった。まだ明るい夕方だというのに、七~十二、三歳くらいの少女たちが売られていた。

 三軒目の置き屋に入った時、少女を連れ出そうとしている白人の男とすれ違った。六十代の体格のいい男で、私たちを威嚇するように睨んだ。タイでは法律で売春は禁じられている。児童買春ともなれば重罪だが、実際には取り締まられていない。

 ジェシカの顔が悲壮になる。手当たり次第に、考える限りの置き屋を探した。しかし、ソンはどこにも見あたらなかった。ジェシカは深いため息をつき、力なく肩を落とした。

「どこか遠くに売られたのかも」。ジェシカが泣きそうになりながら言った。

「遠くって、どこへ」

「国境の近くよ。ミャンマーとか、ラオスとか。ウドーン・タニーやチェンラーイに売られたのかも知れへんよ。もう見つかれへんかもしれない」

 ジェシカはあきらめたように目を閉じた。私には慰めるべき言葉は見あたらなかった。あの幼くて可愛いソンが、今ごろ男たちを相手にしているのかもしれない。置き屋にいた無表情の子どもたちの顔が思い出された。私は、まったく無力だった。

 日が暮れた。私たちはウオーキングストリートを歩いた。けばけばしいピンクのネオンがひしめき、店からは派手なディズコミュージックが流れている。ゴーゴーバーが軒を連ね、店の前ではスチュワーデス姿の女の子たちが並んでいる。

 小さな漁村に過ぎなかったパタヤを、世界でも類を見ないセックス産業地に変えたのはアメリカだ。ベトナム戦争でパタヤを兵士たちの保養地として利用し、ゴーゴーバーや売春などのセックス産業を発展させた。そのアメリカが日本の慰安婦制度を非難している。

 私がぼんやりとそんなことを思っていると、ジェシカが手を斜めに突き出し、ソンテウを捕まえた。私たちはソンテウに乗り込み、無言のままクルマに揺られた。

 ソテンウはパタヤの暗い裏道を走り、十五分ほど走るとドルフィンロータリーに着いた。パタヤをぐるっと一周したのだ。

 ジェシカが「降りましょう」と言って、ソンテウから降りた。私も荷台から地面に降り立った。イルカの銅像のまわりを噴水が取り囲んでいた。噴水の向こうには、広々といた大きな庭園があり、柔らかな私ンジ色の光にライトアップされた白亜の建物があった。夕暮れに見たリゾートホテルだった。

「ここに入るの」とジェシカが言った。

 

19

 

 ホテルのロビーは大きな吹き抜けとなっている。ぴかぴかに光った大理石の床が広がっていた。ジェシカがフロントでチェックインを済まし、廊下をまっすぐ歩く。廊下の右手から、熱帯雨林が生い茂った中庭を見下ろすことができた。大きな滝が流れ、川のせせらぎがヤシの樹やバナナの樹を縫うように流れていた。川には色鮮やかな鯉が泳いでいる。

 廊下をまっすぐ歩くと、そこはラウンジになっていた。大きな窓が半円形に並び、青いライトに照らされたパタヤの海が視界いっぱいに広がった。ジェシカはあっけないほどの無表情でラウンジを素通りし、エレベーターに向かった。

 なぜジェシカがこのホテルに泊まろうと言い出したのか。ジェシカはこうした高級なホテルに泊まるのは馴れていた。エレベーターに乗りこみ、五階で降りた。廊下は柔らかな私ンジ色の明かりが灯っているだけで薄暗かった。一番奥の角部屋に向かって、ジェシカはさっさと歩いた。私はジェシカの背中を見ながら、彼女の後を追うように歩いた。

 ジェシカが部屋の前に立ち止まり、ドアにカードを鍵に挿しこんで引き抜いた。カチャという音がして、ドアが開いた。ジェシカに続いて、部屋に入る。右手にバスルームがあった。その前を過ぎると、シックな部屋が広がった。大きく開いた窓には、夜の海を眺望することができた。

窓の両脇にはレースの刺繍が美しいカーテンが添えられている。部屋の真ん中には、天井から白いレースを吊るしたキングサイズのベッド。その脇にはゴージャスなソファーが置かれている。

ジェシカは部屋を横切り、バルコニーに出ると、手すりにもたれて海を淡々と見ていた。バルコニーにはウッドチェアーがふたつ揃っていた。

 バルコニーから出て来たジェシカは、私の顔を見て、「シャワーを浴びるわ」と言った。ジェシカはくるりと背を向け、「外して」と言った。

 私は震える手でマリンブルーのワンピースのジッパーを引き、止めを外した。衣擦れの音を残し、ワンピースが一気に落ちた。ジェシカの左肩に、極彩色の天女が翼を広げていた。雨のスラム街で、ブラウスの薄い布地を通してぼんやりながらに見えたタトゥーが、はっきりと見えた。

天女はすっと通った鼻筋で、綺麗な瞳をしている。高貴な色気を放っている。天女は小首をかしげ、右手に持った貝殻を軽く耳にあてている。長い髪には艶やかな髪飾りが付けられている。

天女は、やさしい笑みをたたえていた。きらめき、くるめくような天女の美しさに、心が戦いた。寒気すら覚えた。

 ジェシカは黒い下着姿のままバスルームへと消えていった。ジェシカの身体の横からツンと突き出した豊かな乳房を見ることができた。上向きの乳房は瑞々しく、この上もなく美しい。キュンと引き締まった腰のくびれと、豊かな腰のラインも見事だ。これほどまでの完璧なスタイルの女に、これまで出会ったことがない。

 私はベッドの端に腰を掛け、バスルームから聞こえてくるシャワーの音を聞いた。

 二十分ほどしてジェシカがバスルームから出て来た。亜麻色の濡れた長い髪を輝かせ、厚手の白いバスタオルに身体を包んでいる。ジェシカは、匂い立つような色気を放っていた。バスタオルでまかれた胸もとは谷間が深く切れ込み、濃い影を落としている。細っそりとしたウエストから豊かな腰にかけての美しいラインがバスタオルの上からも十分に見て取ることができる。

 ジェシカは冷蔵庫からシンハーを取り出し、ベッドの上であぐらをかきながらビールを飲んだ。バスタオルがはだけ、肉づきのいい小麦色のふとももが露わになっている。ジェシカの脚はまっすぐしなやかで、瑞々しく張りつめている。

私は突っ立って、ジェシカを見ているだけだった。肩には水玉が滴り、天女が暗い目で私を見ていた。

 ジェシカがシンハーを片手に静かに私を見上げ、「シンイチさん、お金持っている?」と尋ねた。

 私はトニーから預かった金や、お婆さんからもらった給料のほか、それにこれまで溜めていた金を思い出した。数千バーツはあるだろう。このホテルの支払いくらいならなんとかなるかもしれない。

「ええ。このホテルの支払いくらいなら」

「うち、百万バーツいるね」

 声が出なかった。三百万円以上の大金である。顔色が変わるのが自分でもわかった。

 ジェシカはうつむき、絶望的な表情をした。

「そのお金がなかったら、うちの弟は殺されてしまう」

「――――」

「シャブの密売金に手ェつけてしもうたんよ」

 あの時、血相を変えて店に飛び込んできたのは、そういう訳だったのか。ジェシカの弟を追っているのはマフィアの連中だろう。

「弟、警察に突き出されてしまうわ」

「逮捕ですか」

 ジェシカは顔を伏せて、首を横に振った。

「死刑になるの」

 伏し目がちのジェシカの顔に、この女の中にひそむ際立って暗いものが不意に現れる。愁いを含んだ光が彼女の顔をひっそり照らしている。

 私は斜めがけのショルダーバッグから財布を取り出し、ベッドの上にお金を広げた。千バーツ紙幣が五枚、他に百バーツ紙幣が七枚あった。これで全部だった。

 ジェシカはくすくすと笑った。

「うちね、トニーに百万バーツで売り飛ばされたんよ。明後日までにクアラルンプールに行かへんなんだら、弟は逮捕されて死刑になるか、ドラム缶にコンクリート詰めにされてクロントイの港に沈められるわ」

 ジェシカは唇を噛み、目に悔し涙を浮かべた。

「どうして、クアラルンプールに……」

「中国人がいっぱいいるからよ。日本人客が減って、バンコクでは稼げなくなった。うち、クアラルンプールには行きとうない。シャブ漬けにされて、毎日、男を取らされるわ。ボロ雑巾みたいになるまで」

 ジェシカは唇をかみしめ、不透明な膜を通したように、ぼんやりと目を見開き、私の顔を見つめていた。

 ジェシカの目から涙が流れ、頬を伝った涙はベルベットのシーツに次々と落ちていった。ジェシカは両手で顔を覆い、まるで吐くような格好で背中をまるめて泣いた。私はジェシカの肩にそっと手を伸ばした。ジェシカの身体の震えが私の指に伝わった。次の瞬間、ほとんど無意識のうちにジェシカを抱きしめた。ジェシカの身体を強く抱いた。ジェシカは私の胸に頭をうずめ、肩を震わせながら泣いた。私は左手で彼女の身体を支え、右手で亜麻色の細くて長い髪を撫でた。長い間、彼女の髪を撫でていた。ジェシカはいつまでたっても泣きやまなかった。

 その夜、ジェシカを抱いた。

汗で濡れたジェシカの褐色の肌が光っていた。女の澄んだ目からうなじにかけてエロティックな芳香が漂い、綺麗な鼻筋が天井を向き、左肩に彫られた天女のタトゥーが青白い炎のように揺らめいた。深く目を閉じると、スポットライトを浴びて汗を飛び散らせて踊るジェシカの姿が見えた。

降りしきる夜空いっぱいに、明るく澄んだ流星の声が広がった。

 

20

 

 夜じゅう、ジェシカを抱いていた。彼女の安らかな寝顔を見ていた。ジェシカは雛のように私の胸に顔をうずめていた。私は飽きることなく、ジェシカの寝顔を見つめ続けた。

やがて夜が音もなく明け、窓がうっすらと白く濁り始める。その白さの端に、薄紅色の光が差し込み始める。

 ほんの少しだけ眠った。夢の中で、天女に出会った。ぼんやりとした窓辺の白い光の中に天女が立っていた。天女は、うっすらと微笑んでいた。はにかんでもいた。天女は私に近づき、そっと手を差し伸べた。やわらかな白い手が僕の頬に触れた。

天女の瞳はブルーサファイアのように深く透き通っていた。

 淡く、それでいてくっきりとした蝶が天女のまわりに舞っていた。私は一匹の蝶になり、天女の前にひざまずき、その手にキスをした。

 青い蝶は窓辺に止まり、夜明けの色を映し出していた。私は夜が明けるのを待った。昼と夜を引き合す、夜明けの光を待ち続けた。

繊細なガラスに触れるように優しく、ジェシカを抱いた。

朝の薄明かりの中で、ジェシカの身体がぼんやり浮かび上がり、彼女の細かな動きにあわせて部屋の淡い光が肌の上をゆっくり移ろった。つんと上を向いた豊かな胸や縦長の美しいへそや繊細なウエストや下腹部のやさしい曲線や薄く茂った茂みや、すんなりと伸びた脚が月夜の川原の小石のように不思議に光っていた。

陰影に富む身体つきをしたジェシカの身体はこのうえもなく神々しく、そして綺麗だった。美しい切れ長の目。筋の通った鼻りょうも美しい。

ジェシカの肌はすべすべしている。私の身体にぴったりと吸いつく。豹のような、しなやかな身体つき。形のいい豊かな胸にうもれ、薔薇の蕾を優しく舌で転がして含んだ。汗と香水が混じった女の匂い。月夜に浮かぶ小舟のように、ジェシカを抱いた。優しい揺りかごに揺られているみたいだ。

ジェシカの中で最も敏感な丘に辿り着く。ジェシカを開き、薔薇の花芯を見つめる。花芯は美しい円錐形をしている。真珠の涙を浮かべたように光っている。私ンジ色の切ない祈りが渦巻いている。微かな愁いを含んでいる。それは暁の塔のように、つんと立っていた。

甘い蜜をゆっくり丁寧に舌で味わう。優しくすればするほど、蜜は溢れ出す。ジェシカは身をよじって快楽にうねる。暁の塔が建つ丘の向こうに、幸福に満ちたジェシカの顔がある。うっとりと優しく、恍惚に満ちた顔だ。なんて、エロティックな顔なんだろう。なんていい顔をする女なのだろう。なんて、綺麗な顔なんだろう。

ここは、幸せの丘。夜空に無数の星が犇めいていた。

タイランドの優しい子宮に抱かれて、幸福な羊水に揺られていた。

ジェシカの丘に顔をうずめ、夜空に犇めく星を見ていた。生命の風が薔薇色に微笑し、澄んだ流星群が広がり光った。

 

21

 

 ジェシカが目覚め、寝がえりを打った。キスしようとしたが、彼女はそれを拒み、「今、何時?」と尋ねた。

「八時だよ」

「もう、そんな時間?」

 ジェシカはしばらく考えごとをしていた。

「シンイチさんは、どうするの?」

 ジェシカは私の顔をじっと見ていた。

「私はどこにも行くところがありませんから」

「うちと一緒に来て下さるの?」

「あなたと一緒にいたいです」

「そんなに、うちと一緒にいたい?」

「―――ええ」

「この世の外に行くことになっても?」

「――――――」

 ジェシカは透明な視線で私の顔をじっとのぞきこんだ。この上なく、幸せだった。一緒に死んでいいと思える女がいる。命を捨てていいと思える女がいることの幸福。こんないい女と巡り会えた。これで、人生を終えてもいい。素直な心で、そう思った。

 ジェシカはうれしそうな、悲しそうな微妙な表情で少し笑った。

「お腹が空いたわ。食事に行きましょう」と彼女が言った。

 シャワーを浴び、白いワンピースに着替えたジェシカはとても眩しく見えた。部屋を出てエレベーターに乗り、大きな窓が半円形に並ぶラウンジを抜けた。窓からは青いパタヤの海が見えた。爽快な眺めだった。

 西欧人の若いカップルとすれ違った。彼らは柔和な笑みをこぼしていた。南国のリゾートのパタヤ。ここでは誰もが幸せそうな時を過ごしていた。

 朝食はビュッフェとなっていて、熱帯雨林が生い茂る中庭を見下ろしながら食事を楽しむことができた。

 焼き立てのパンやムール貝、手長エビ、アワビのステーキや北京ダック、肉汁がたっぷりつまったローストビーフや、ウニとトリュフ、海老を取りあわせた料理やフルーツの盛り合わせなど、贅沢な品が私たちの前に並んでいた。

「おいしいね」

 ジェシカはナイフとフォークを器用に使ってアワビのステーキを食べた。亜麻色の長い髪を後ろへ揺すって、ジェシカは幸せそうに微笑した。こんなふうに女と一緒に食事をするなんて何年ぶりだろう。私にとって、ここは天国だ。死んだらどうなるのか、どこに行くのかわからない。だが、このまま死んでもいい。

 中庭には川が流れ、大きな錦鯉が泳いでいる。空に向かって大きく開かれた天窓からは明るい陽が燦々と降りそそぎ、ヤシやバナナの樹など熱帯雨林の青々とした葉並を輝かせていた。生命力に満ちた南国の植物の力強さ。精気に満ちあふれ、空気までもが青みがかっている。

 朝食を終えてチェックアウトを済ました。お金はジェシカが支払った。私たちは中庭を抜け、パタヤの海が見えるラウンジからホテルの外に出た。ジェシカは豊かな腰をゆっくりと左右に振りながらホテルの広い庭に整備された遊歩道を歩いてゆく。ジェシカの背中を見ながら彼女のあとを追った。彼女の白いブラが透けて見えた。

 ソンのことが気になった。今日は探しに行かなくていいのか。諦めがいいという私つまでもこだわらないのが、タイのいいところだ。タイには墓がない。墓参りという習慣もない。死んだら生まれ変わる。いい行いをすれば、来世でいい人生に巡り会える。人々は仏の教えを信じている。

 青々とした水をたたえたプールの脇を通り、二人肩を並べて海岸へと歩いた。プールサイドには上等そうな厚手の白い布で覆われたビーチマットがたくさん並び、ビキニスタイルの白人の女たちが横たわっている。

 ホテルは崖の上に立っていた。白い欄干からパタヤの青い海が広がり、水平線に島が見えた。私たちは階段を降りてビーチに向かった。白い砂浜が延々と続いていた。砂はきめ細かく、柔らかな感触を足の裏に感じた。波打ち際には、透明な波が打ち寄せていた。

 海から吹く爽やかな風がジェシカの長い髪を揺らした。彼女は立ち止って振り向き、ほほ笑みながら右手を差し出した。僕は黙って手を差し伸べた。ジェシカの指が僕の指に絡んだ。彼女の温かさを僕は掌に感じた。

 ジェシカと並んで歩くと、クリームリンスのいい匂いが微かに感じられた。彼女は僕の手をしっかり握った。

南国の海のきらめきが、彼女の頬に揺らめいている。ジェシカは眩しそうに光る海を見ている。目に映るものすべてが、最後に見る風景。ひとつ一つが限りなく、愛おしかった。生きている時間の一粒一粒が、美しい流砂のようにきらきらとこぼれる。

「綺麗な海ね」とジェシカが言った。

「本当だね」と私が言った。

「もっと、早く来たかったね」

「ええ――」

 私たち前では、タイの子どもたちが波打ち際に座って砂遊びをしている。時々、キャッ、キャッという歓声があがる。のどかで平和な風景だった。ジェシカは、うれしそうな目で子どもたちを見ていた。

 小さな黒いプードルがちょこちょこと駆け寄ってきた。黒々と可愛い目をしている。子豚のような小さなしっぽを、ちぎれんばかりに振っている。ジェシカは笑顔で両手を広げて黒い小犬を抱きあげる。犬は緊張したみたいに四本の脚をピンと伸ばした。小犬は剝製みたいに固まっていた。ジェシカは微笑しながら小犬を見つめている。おとなしくしていた小犬が急に暴れ出し、ジェシカの顔をぺろぺろ舐めた。驚いたジェシカが手の力を緩めると、その隙に小犬は彼女から飛び降り、可愛いお尻を振りながら砂浜を駆けて行った。ジェシカは眉をしかめながら手の甲で小犬に舐められた頬をぬぐう。ジェシカも、私も笑った。

 

22

 

 不意に背後から男の声が聞こえた。

「おや、ジェシカちゃんやないか」

 Tシャツ姿の浅黒い顔の男が声をかけて来た。太い右腕にタトゥーが彫られている。一瞬にして極道の男だということがわかる。ジェシカの顔が一瞬、強張った。

 男は私の顔をじろりと睨んだ。私の背中に緊張が走った。

「コーンさんも一緒やなかったんですか」

 男は、にやにやと薄ら笑いを浮かべ、ジェシカに近寄った。空気が緊張した。

「さっきまで一緒やったんやけど、先に帰るて言うて……」とジェシカが口ごもった。ジェシカがこの男の追及から逃れようとしているのがわかった。

「パタヤでお愉しみですか。トニーさんがえらい探しておりましたが」

 男は鋭い目で私をちらりと見た。ジェシカが息をのんだ。

「昨日、事務所で会ったわ。気晴らしにパタヤに行って来るって、トニーに言ったけど」

 ジェシカの顔に怯えた色が浮かぶ。

「それじゃ、トニーさんのとこまで送りましょか」

 男は急にジェシカの腕を取り、後ろ手縛りにした。

「何するのッ」

 ジェシカが悲鳴をあげた。

 咄嗟の出来事だった。血が逆流した。身体中のうぶ毛が総立ちとなった。

 私はポケットから拳銃を取り出していた。男の顔面に銃口を構えた。男は怖気づくどころか、挑発的な態度に出た。

 ジェシカを離し、ズボンの前から小さな拳銃を取り出し、私を狙った。最早、逃げられなかった。私は横とびになって太陽を背にして、銃を構えた。何のためらいもなく、引き金を引いた。軽い衝撃が手に伝わった。

 目の前にいた男の右耳が吹き飛ぶのが見えた。同時に血しぶきが飛び散った。男は声にならない叫び声をあげ、狂ったように銃を乱射した。

 ジェシカが駆け寄って来て、私の腕を掴み、「逃げるのよ」と言った。あとは何も考えなかった。何も考えずに、海岸を走った。後ろで男の悲鳴が聞こえた。ジェシカの手を取って、走れるだけ走った。ごつごつとした岩をよじ登り、崖の上にある細い道に出てひたすら走った。

 マンションの前を通り、コンビニを抜け、広い道路へと出た。ピンク色のタクシーが前方からやって来るのが見えた。ジェシカが手を伸ばした。タクシーが目の前に止まった。私たちはなだれ込むようにタクシーに入った。すぐに後ろを見た。男が追ってくる気配はなかった。恐怖で手が震えている。

 後部シートにぐったりもたれた。ジェシカも私も息が切れて、しばらくは話すことができなかった。

 しばらく走ってから運転手が「どこまで?」と尋ねた。ジェシカは「バンコク」と言った。運転手は「バンコクねえ」と嫌そうな声を出し、クルマを走らせた。

 息ができるようになってジェシカが小声で言った。

「あいつはトニーの手下よ。事務所によく出入りしていた。コーンは、うちの弟の名前。同じ事務所にいる。うちらのこと必死で探してんね」

 タクシーは高速道路をまっすぐ北上し、バンコクへと向かっていた。やつらの手下がパタヤにまでいた。おそらく、ジェシカがソンを探しにパタヤに行ったことを知ったのだろう。このままバンコクに行くのは危険だった。

「逃げよう」と私が言った。「飛行機は危なすぎる。ファランポーン駅から寝台列車に乗ろう。バンコクから離れるんだ。できるだけ遠くへ」

 ジェシカは横顔のまま、うなずいた。

 

23

 

 タクシーは高速道路を降り、スクンビット通りを走った。前方にス私トレイン・BTSの高架駅が見えた。

「ここで降ろして」とジェシカが叫んだ。ジェシカは千五百バーツを支払った。ジェシカに続いて、私もタクシーから降りた。

「どうしたんですか?」と私は尋ねた。

「ここから、BTSに乗るのよ」と彼女は言った。

 自動販売機で切符を買った。プリペイドカードのような切符を自動改札機に通し、エスカレーターでホームにまで上がった。電車がホームに止まっていた。がらすきの電車に乗り込み、プラスティック製の硬い座席に座った。窓の外を見た。ここが終着駅のベーリン駅だということがわかった。

「空港も駅もバスターミナルも、あいつらが見張っている。サイアムもシーロムも、プロンポンもアソークもナナも危険」とジェシカが早口で言った。

「それじゃ、どこも行くところが……」

「そうよ。こんな街はずれの駅だと見つからない」

「これから、どうしますか……」

 ジェシカは車内にあるテレビモニターを見ていた。化粧品やお菓子などのコマーシャルがテレビ画面に映し出されている。

 画面が切り替わり、真っ青な青い海が広がった。

「――――ピピ島ね」。ジェシカは独り言のようにつぶやいた。

 私も画面を見ていた。切り立った岩。真っ白いビーチ。どこまでも透明な遠浅の海に、エメラルドグリーンの魚たちが群れている。あんな美しい島がタイにあるなんて。

「ねえ、シンイチさん、“ザ・ビーチ”という映画を知ってる?」

「ええ、名前だけなら。タイタニックのディカプリオが百本以上のオファーを蹴って出演を決めたって、話題になってましたけど……」

 画面では、白いビキニを着た女の子が両手を広げ、まぶしい太陽の光を浴びて微笑んでいる。

「一人でタイにまでやって来たディカプリオが、カオサンの安宿で伝説のビーチを知るの。そこは、美しすぎるほどに美しいビーチ。日常のすべてから解放される夢の楽園……」

「そんな島があるのですか」

「あの島にずっと行きたいって思ってた。ね、シンイチさん。最後に、その島に連れていって―――――」

「…………」

 ジェシカの“最後に”という言葉が、私の肺腑をえぐりとった。唇を噛みしめた。ジェシカは私を見ていた。透き通った大きな瞳が私を見つめる。――――この女となら、と私は思った。死んでもいい。私はジェシカの手を強く握った。

「ええ。行きましょう。ふたりで―――」

 ジェシカの顔に笑みが広がる。私は、この世の寒いところへ来た。

 美しすぎるビーチがあるのなら、私も最後に行ってみたい。この世の絶世の美女と一緒に、夢の楽園へと行きたい。

 

24

 

 BTSのトンロー駅で降り、市バスを乗り継いで、タイ国有鉄道の始発駅・ファランポーン駅へ向かった。トニーたちから目をくらませるため、途中でチュラーロンコーン大学に入り、学食で昼ご飯を食べた。

「まさか大学にまで見張りを立てないわ」。ジェシカはソムタムを食べながら言った。学食は潜伏するのにはふさわしい場所だった。学食ではコーラスらしいグループが楽譜を持ちながら集会をしている。チアリーダーの姿をした女子学生の一群が楽しそうに食事をしていた。

 学内の本屋で地図を買い、ピピ島に行く方法を考えていた。

「ピピ島に行くのなら、列車でスラー・ターニーまで行って、そこからプーケットタウンにまでバスに行って、あとは船に乗ったらいける」と私は言った。

「切符はどうする?」とジェシカが言った。「ファランポーン駅の改札では、トニーの追手が見張ってるかも」

 私はしばらく考えた。そして、ジェシカに言った。

「列車が動き出す直前に乗り込もう。切符は列車の中で買えばいい」

 

25

 

 夕暮れになるのを待って、チュラーロンコーン大学を出た。地下鉄のMRTは危険なので、バスに乗り込み、ファランポーンの駅近くで降りた。

 噴水広場に面したファランポーン駅は大きなドーム型の屋根を持ち、両脇には城のような門構えがあり、タイの国旗がはためていている。

 鉄骨で覆われた丸屋根の中は広場のようになっていて、大勢の欧米人のバックパッカーや、故郷に帰省するタイ人たちが床に座り込んだり、寝そべったりして列車の出発時刻を待っている。国王の肖像画が掲げられた正面のチケット売り場には20個くらいの窓が並ぶ。窓口ではパソコンで列車の空き状況を調べて発券してくれる。

肖像画の下にトンネルの入り口のように開いた改札口はフリーになっていて、チケットを持たない人も自由に出入りすることができる。切符を買って、正面の改札口から列車に乗り込むのは大勢の人々に自分たちを晒すことになる。トニーの手下たちがどこで見張っているのかわからない。とても危険だ。私はジェシカの手を握りながらファランポーン駅を大きくまわり込み、踏切から線路内に侵入した。

ファランポーン駅は、線路が敷かれた地面とホームの高さが三十センチほどしかない。たくさんの人々が線路を横断している。私たちを不審そうに見る目はなかった。貨物列車の陰に隠れ、私たちが乗りこむ列車を探した。

草むらに覆われた線路を横断してゆくうち、私ンジと赤で塗られたディーゼル機関車が見えた。客車は紫色で塗られているが、日本で走っていたブルートレインだということがわかる。かつて私は中学生の時に、あの列車に乗って東京から九州へ家出したことがあった。あの時は一人だったが、今は二人だ。

「あの列車だ。行こう」と私は小さく叫んだ。

 ジェシカは大きくうなずいた。瞳が不安そうに揺れている。

 私たちから三十メートルほど離れたところに、スラー・ターニー行きのディーゼル機関車が止まっていた。屋根から黒煙を吐き出し、警笛を鳴らしていた。

 プラットフォームは蛍光灯の明かりの列が並んでいる。日は沈み、夜が地表を這い始めていた。暗闇の中に、ぽつりぽつりと続く蛍光灯の列は深い郷愁に駆られた。

「動き始めたわよ」とジェシカが言った。

ディーゼル機関車の車輪がゆっくりとまわり、長く編成された客車を引っ張り始めた。

「行こう」

 私はジェシカの手を取って、列車に向かって走り出した。草むらを踏みわけ、線路を越えた。列車は歩くような速度でゆっくりと動いている。

 車両の連結部分に、乗降するドアが口を開けている。列車と並行して走りながら、左手でドアの手すりを掴んだ。右手でジェシカの腰を抱き、勢いをつけて列車に飛び乗り、銀色のステップを踏んだ。ジェシカがふらつき、列車から落ちようとした。私は渾身の力を込めてジェシカを抱えた。彼女を離さなかった。

 私の腕の中で、ジェシカの目が小さく見あげていた。その瞳は微かな愁いを含み、神秘的な透明感に満ちていた。私はジェシカの身体を抱いた。彼女が目を閉じる。私はジェシカの唇に自分の唇を合わせた。

 

26

 

 客車に入った。真ん中の通路をはさんで窓際に二段式のベッドが並ぶ二等寝台列車だった。窓には個室式の座席があり、茶色いシートが対面していた。

 私はジェシカの手を引いて、車両の半ばほど歩き、空いている席に座った。席に座ると、ほっとした。

「楽しいね」とジェシカが笑った。「そうだね」と、私も微かに笑った。

 窓の外は暗かった。ホームレスが寝そべっている小さな駅を過ぎ、線路沿いに建ち並ぶ屋台街を通り抜け、列車はゆっくりと走り続けた。

 バンコクの灯が遠ざかってゆくのを感じた。もう、ここには二度と来ることはない。ふとジェシカを見た。ジェシカはやや目を伏していた。その姿が美しかった。

 私が手を伸ばすと、ジェシカも手を伸ばした。

「弟、今ごろ必死になって、うちのことを探してんね」

「えっ」

「うちはお金で売られた女や。小さい時から道ばたで手を合わせながら生きてきた。弟も一緒やった。おもちゃなんてなかったから、野良犬と遊んでた。痩せこけて、あばら骨が浮き出て、病気で今にも死にそうなよぼよぼの犬よ。近所の屋台では死んだ犬の肉をミンチにして売ってたわ。弟、いい暮らしをしたいと思うて密売金に手を出したんよ」

「誰だって、いい暮らしをしたいと思います……」

「そうね。でも、もうおしまいや。弟はドラム缶にコンクリート詰めにされて、クロントイの港に沈められてしまうんや。けど、仕方ないね。そんな道を選んだんやから」

 ジェシカは窓の外に視線を向けた。白色蛍光灯の光がジェシカの亜麻色の髪を明るく染めていた。

 私は、ジェシカが今にもバンコクに引き返そうと言い出すのではないかと、にわかに不安に思った。このままジェシカと旅に出ることは死に向かって進むことになる。死は怖い。けれど、その死に向かって、ジェシカと手を取りあって進んでいることが、この上ない歓びだった。

「うちは、男がコンクリート詰めにされるのを、見たことがあるわ」

「――――」

「顔面、真っ青にして、助けてくれッ――て。あんなに偉そうに威張り腐ってたのに。ええ気味よ」

「知ってる人ですか?」

「うちの後をつけてきとった人や。メルゼデスを乗りまわして、うちに声をかけてきて。トニーにいかれてもうたんよ」

 私は言葉が出て来なかった。私がジェシカの後をつけていたのを、トニーも知っているのか……。

 間もなく車掌がやってきた。白い軍服を着た車掌にスラー・ターニーまでのチケットを買い求めた。車掌は無愛想に切符を出し、それから私たちを隣の席に座らせ、座席を平らにしてベッドに変えた。白いシーツで覆われた座席はまるで野戦病院のベッドのようだった。

「休みましょう」

 ジェシカはそう言って、ベッドに入り込み、緑色のカーテンを閉めた。狭い空間に緑色の闇がたちこめた。狭い自分だけの勉強部屋のように、心が妙に落ちつくのを感じた。ここは誰にも邪魔されない、ふたりの部屋だった。

「ずっと昔、子どものころ、資材置き場で自分だけの基地を作ったことがありました。角材やベニヤ板を組み合わせて、狭い空間を作って、そこで猫と遊んでいました……」

 ジェシカはふふふと笑い、「今は、あたしが猫ね」と笑った。

 ジェシカは両手を広げて私に抱きついてきた。私たちは寝転がり、互いを固く抱きあった。ベッドは、ふたりで抱きあわないと寝られないほど狭かった。私には有難い狭さだった。私はジェシカの肩を抱きながら、通り過ぎてゆく街の光を見つめていた。

 

27

 

 列車の揺れは居心地がよく、ジェシカを抱いたまま眠っていた。気が付いたら、窓の外が白んでいた。列車は荒野を走っていた。夜明けの薄茜色に染まった大地がどこまでも果てしなく続いている。傾いた電柱が線路と平行して並んでいた。道路もなく、民家も見えない。ただ荒涼とした乾いた大地が窓いっぱいに広がっていた。

 ジェシカの顔が、私の腕の中になった。小さな息をしている。可愛い寝顔。ジェシカは私の背中に腕をまわし、小さな女の子のようにしがみついている。

 死んだらどうなるのか。魂は本当にあるのか。生まれ変わりはあるのか。釈迦が言うように、何度も生まれ変わり、この現世で何度も同じ苦しみを味わなければならないのか。生きるという苦しみ。

 次に生れる時はジェシカに会えるのか。

 柔らかな夜明けの光が次第に強さを増してゆく。

 私はジェシカの長い髪を撫でた。

 光は死に、そして何度も蘇る。

なぜ死ぬのだ。なぜ生きようとしないのか。ジェシカの可愛い寝顔を見た。眠る彼女の額に私はキスをした。

ジェシカは透き通ったガラスのように儚げだった。やがて、ジェシカはやわらかな卵が割れるようにして目を開いた。生まれたての雛のように、ジェシカはしばらく様子がつかめないようだった。だが、ぼんやり見開いたジェシカの目の焦点が定まり、やがて私を認識した。

「あっ、シンイチさん」

ジェシカはそう言って、小さなひまわりのように明るく微笑んだ。

「いま、何時?」

「六時です」

「夜が明けたのね」

「ええ。もうすぐスラー・ターニーに着きます」

 ジェシカは視線を私の顔からゆっくりと窓の外に向けた。列車は沼地を走っていた。深緑色の沼のまわりを熱帯樹林が生い茂っている。

「夢を見ていたわ。おばちゃんの夢よ」とジェシカが遠くを見るような目で窓の外を見た。

「おばあさんですか? 私たちがいなくなったことを知って、心配しておられるでしょうね」

「おばちゃんね、トニーに頼まれて麻薬を密売しとったん。あんたに最初に会った時、この日本人は使わると思ったんよ。けど、つらくなってきた」

 私の腕の中で、小さな透き通る声でジェシカが言った。

「息子さんは麻薬密売で射殺されたのでしたね」

「そうよ。おばちゃんは、シンイチさんと同じくらいの息子がおって、拳銃で撃ち殺されてしもうたんよ。シンイチさんと一緒に過ごすうちに、おばちゃんは自分の息子のことを思い出していたんね」

ジェシカは物思いにふけりながら、ひとり言のようにつぶやいた。

「お婆さんに息子さんがいらしたのですね」

「シンイチさんのこと、自分の息子のように思えて来たんね」

「そうですか―――」

「シンイチさんのお母さんは元気?」

「もう死にました。ずいぶん前ですが」

「うちと一緒ね」

「家族は? 兄弟とか、親せきは?」

「父親は知りません。兄弟もいません。親戚も、友だちもおりません」

「なんや、うちと似てるね」

「ええ――」

「シンイチさん、何も持たないって素敵ね」

「ええ、そう思います」

「しがらみに縛られることがないわ。ただ、前を向いて、大海原に舟を漕ぎ出すだけでいいのよ」

 私は静かに笑った。

 汽車の窓には地平線が広がっている。ゆらゆらと真っ赤な太陽が昇り、荒れた大地を眩しく照らし出している。ジェシカは深く透き通った目を車窓に向け、「光が綺麗ね」と言った。それからジェシカは優しげに目を細めた。彼女は長い間、明るい光を見つめていた。

 

28

 

 すっかり夜が明けた。明るく強い陽射しが熱帯雨林を突き抜ける。バンコクよりも陽の光が明るく澄んでいる。汽車は小さな入り江の街に差しかかり、ほんの一瞬だけ海が見えた。タイ湾だ。熱帯の陽射しを浴びて、ぎらぎらと輝いている。とうとう来たのだ。そこは、私たちを呑み込む海だった。

 ジェシカは静かだった。私に肩を抱かれたまま、じっと動かない。彼女の目には、無垢な優しさがあふれている。

 列車はスラー・ターニー駅に着いた。小さな田舎の駅だ。線路には草が生い茂っている。私たちはソンテウに乗り、街の中心部へと向かった。ナ・ムアン通りの屋台で食事を済ませ、プーケットタウン行きのバスターミナルに行った。埃にまみれた長距離バスが何台も止まっている。

 バンコク行きのバスが目の前に止まっている。あのバスに乗れば引き返せる。自分だけ助かることはできる。死にたくなかった。しかし、ジェシカの死への同伴者となることを望んでいた。自分たちの愛を完結したい、と思っていた。

 プーケットタウン行きのバスに私たちは乗り込んだ。熱帯の暑い日差しが地上の静寂さを照らし出していた。はっきりと死を感じた。

 街を過ぎると、あたりは平原となった。国道がまっすぐ伸びている。屋台を手で押しながらのろのろと歩く人が国道の脇に見えた。オートバイに子どもを五人も乗せた母親もいる。バスは小さな村を抜け、低くなだらかな山を通り過ぎ、川を越え、何時間も走り続けた。ジェシカも私も、いつの間にか眠っていた。

 目が覚めた時、賑やかな街が見えた。プーケットタウンに来たのだ。

「疲れたわ」とジェシカが言った。少し顔が青ざめていた。列車とバスの長旅に、ジェシカの顔は疲労の色が滲み出ていた。

「ピピ島は、ここから船で二時間ほどです。今日はプーケットタウンに泊まって、明日、島に向かったらどうですか」

「そうね。ここなら、誰にも見つからないし」

 私たちはトゥクトゥクに乗って、街の中心部にある時計塔に向かった。プーケットタウンは、中国風の街並みやコロニアル風の西欧建築が犇めき、東南アジアでも中国でも西洋でもない、独自のスタイルを持っていた。初めて訪れる街なのに、どこか懐かしい。

 私はジェシカの手を引いて宿を探した。雨や風に蝕まれた土塀が続き、洋風のバルコニーには使い古された萌黄色の洗濯物が国旗のように並び、路地裏からは怒鳴り声とともに荷台に多くの労働者を乗せたソンテウが飛び出してくる。

路地裏に入り込む。むさくるしい部屋がのぞいた裏通りの壁に、ぞっとするような真紅のハイビスカスが絡まりあうのを見つけ、身震いのようなものを覚えた。入り組んだ路地裏で、現実と私自身が見失ってゆくのを楽しんだ。自分自身が消えてゆくようにも感じた。

プーケット通りから一本の奥に入った道路に小奇麗なホテルが建っていた。そのホテルに泊まることにした。

二人とも疲れていた。部屋に入るなり、二人は抱きあい、もつれあうようにしてベッドに転がった。疲労で脳が溶けかかっているらしく、ぐったりして動かなかった。そのまま、病人のように眠り続けた。どれくらい眠ったのか。夢うつつに目が覚めた。窓のカーテンは閉めたままで、薄赤い闇がたちこめ、今が朝なのか、夕方なのか、その区別がつかなかった。

 

29

 

激しい雨の音で目が覚めた。ベッドから起き上がり、カーテンを開けた。スコールが街を白く染めあげていた。道路は雨の針で白く泡立ち、溝は鉄砲水であふれていた。

ジェシカと初めてキスした夜を思い出した。

ジェシカの長い黒髪の先から、雨の雫が滴っていた。鼻孔をくすぐる化粧の香り。私を見つめる目。びっくりするくらいに綺麗だった。ジェシカの凛々しい顔に、雨の雫が光っていた。

雨に濡れた白いブラウスの内側を豊かな乳房が押し上げ、雨の水玉が滴り落ちる首筋から匂い立つような色気を放っていた。

 私は後ろを向いた。ジェシカがシーツを口もとにまで引っ張り上げ、静かな寝息をたてている。私はベッドにもぐり込み、ジェシカを強く抱いた。ジェシカは寝返りを打ち、私の方に身体を向けた。ジェシカの豊満な乳房が、私のみぞうちのあたりに押し付けられた。雨の音を聞きながら、ジェシカを抱き続けた。

 次に目覚めたときにはスコールは立ち去っていた。低く垂れこめていた陰鬱な雨雲は南からの乾いた風に押しやられて、どこかに消えていた。

道路をはさんだトタンの屋根や熱帯樹林の枝先から、雨の雫が真珠の涙のようにこぼれ落ちている。雨の雫は熱帯の明るい陽射しを受けて輝き、瑞々しい夏の匂いがした。雨に洗われた街は空気が澄んでいた。

「雨、あがったの?」

 ジェシカが裸の胸を私の腕に押しつけながら尋ねた。

「とてもいい天気」

「よかったあ」 

ジェシカは両手を広げて、子どものように喜んだ。

「ねえ、弾はあと幾つ?」

「二発、残っています」

「いいね。最後に島に行きましょう」

 ジェシカはベッドから起き上がり、出かける準備を始めた。

 

30

 

 ホテルの近くでトゥクトゥクを拾い、ピピ島行きの船乗り場に向かった。街はずれの船乗り場は閑散としていた。トゥクトゥクを降り、ジェシカは長い黒髪をなびかせて、波止場へと歩いてゆく。小さな桟橋があり、ピピ島に向かう定期船が泊まっていた。

 チケットを買い、頼りなさそうなはしごを渡って、船に乗り込んだ。船は、白人たちがいっぱい乗っていた。

金髪の女たちが船べりの手すりにもたれ、朝の光にきらきらと輝く港の海を見ている。アンダマン海は深い緑色の水をたたえていた。

 私たちは船べりに座った。出港の時間となり、スクリューがゆっくりと廻り始めた。海面が泡立ち、船は進み始めた。

プーケットタウンのなだらかな山並が船のデッキから見えた。ジェシカの目がぼんやり見開かれていた。港や発電所が遠ざかってゆく。

船はプーケット島を離れ、アンダマンの海を進んだ。波はなく、海は水鏡のように静かだった。今、私たちの目に映るものは、海と空の青さだけだった。それらは悲しいほどに青く、深く透き通っていた。

ジェシカはホテルを出る時に、弾はあと幾つ残っているのかと聞いた。弾は、あと二発。頭を狙えば確実に死ねるだろう。

心が固まっていた。アジア人は私たちだけで、それ以外はすべて白人だった。ピピ島行きの船のデッキはバックパッカーの白人たちで埋め尽くされていた。白人の男たちはシャツを脱ぎ、毛むくじゃらの胸毛を見せながらデッキに寝転がっている。白人の女たちもホットパンツにビキニという姿で、缶ビールを片手に持ちながら気持よさそうに日光浴をしている。

そんな彼らを見ていると、死なんて遠い、ずっと別の世界のように思えた。だが、ここにいる者たちも、確実に死ぬ。地球もやがては死滅する。海が干上がり、空から雲が消える。太陽だって永遠ではない。

人も、星も、ほんの一瞬だけ生きて、永遠の沈黙に吸い込まれる。私が愛する人も、憎しみ恨みを抱く者も、生涯会うことのない、顔も知らない無数の人たちも。

どんな美しいメロディーを奏でようと、どんな見苦しい不調和音を出そうとも、ステージに立てるのは一度だけ。

ささやかな小さな命。その命で掴んだものは何だろう。私が命と引き換えに掴んだもの。私が命に代えて掴んだものは何だろう。

ジェシカは、私と一緒に死んでほしいと言った。そのことに、自分の命を使う。

ジェシカも海を見つめ続けていた。彼女は何かほかのことを考えているようだった。誰よりも近く、こんなに寄り添っていても、心が近くにいるとは限らない。

穏やかな朝の光がアンダマン海の上いっぱいに降りそそいでいた。光の粒子が波間に浮かび、長い銀の龍となってアンダマン海に連なっていた。

 

31

 

船はアンダマン海を進み続けた。空と海の青さが目に沁みた。命の輝きを感じる。このアンダマン海には、目には見えない水流のようなものが渦巻いている。

水平線に奇妙な形をした岩の連なりが見える。島だ。ジェシカは眩しそうに目を細めながら島を見つめている。あれが映画の舞台にもなった島なのだろう。

アンダマン海に真珠の涙のように浮かぶ二つの島。大きい島が観光化されているピピ・ドン島で、その南にある小さな島が無人島のピピ・レイ島だと、隣にいた白人の女が話していた。

奇怪な岩が集まった小さな無人島が、ピピ・レイ島である。ここはサンゴ礁に囲まれた楽園だ。私は長い間、旅を続けて来たが、探し求めていた楽園にようやく辿り着いた気がした。ここが私の安住の地だ。

船は二つの島の間を通り、大きな島の入り江に入った。静かな海が広がっている。入り江にはタイ独自の木の舟が幾隻も浮かんでいる。舳先にはカラフルな布が束ねてられている。神を感じた。

なだらかな山の稜線が島の中心に向かってのびている。濃く茂った椰子の木が海岸に沿って立ち並び、午後の明るい陽射しを浴びて光っている。きらきらとしたエネルギーの雫が集まり、島は精気に満ちあふれている。

白いホテルや土産物屋が集まる桟橋に船は接岸し、旅行客たちは荷物を持って島に降りた。日光浴やシュノーケリングを目的とした人たちはとても楽しそうに見えた。ジェシカは、じっと前を見つめている。何かを見ているわけではなかった。暗い目だった。死を見つめていた。

私たちは手を取りあい、バックパッカーの白人たちに混じって、船から降りた。桟橋を渡ると、狭い路地に雑貨店やレストラン、ゲストハウスがひしめいていた。小さいながらも賑やかな通りだ。琥珀色のガラス細工や桜色した真珠のネックレス、派手なビキニやカラフルなシャツが店の軒先に売られている。

手羽先やサザエなどを焼いた屋台街を進んだ。ヤシの葉を屋根にかぶせただけの簡素なオープンバーに挟まれた道を抜ける。私は驚きの声をあげる。海だ。視界いっぱいに海が広がる。真っ白なビーチに心が躍った。

白いビーチは弓状に広がり、海岸に沿ってヤシの樹がずっと果てまで続いている。ジェシカがはしゃぎ声を出して、波打ち際に駆け寄る。あどけない子どものようだ。しかし、白いワンピースを着たジェシカは天女のように見える。私もジェシカと並んで波打ち際に立った。透明で柔らかな波が、私たち足もとに寄せは返す。

「気持いいね」とジェシカが笑った。

「本当に――」と私も笑みを返す。

海を見る。透き通った海の青、空の青。死なんて、ずっと遠い先だ。

 

32

 

 椰子の葉で天井を覆ったビアバーに入った。日陰に行くと、空気がひんやりとした。昼間のバーはレストランとなっていた。エビを豪華に焼いたクン・パオや、パパイヤをささがきにしたソム・タム、厚切りのラオス風のビーフステーキ、パイナップルの器に盛られた海鮮チャーハンを頼んだ。

 私たちの目の前にはパラソルとビーチベットが並んでいる。遠浅の海には紐のような細いビキニを着た白人の女たちが水浴びをして楽しんでいる。空は高く、美しいサルビア・ブルーに澄んでいる。空の色をそのまま映したアンダマン海は瑞々しい匂いがした。

 しばらくしてドリンクが運ばれてきた。ジェシカが頼んだのは、ヤシの実をまるごと使ったジュースだった。ヤシの実の上の部分をくり抜き、ストローが挿しこんであった。私はハイネケンを持ち、ヤシの実ジュースと乾杯した。

 今夜、死ぬかもしれない。しかし、私たちはどこか気楽だった。どうしようもない境地を楽しんでいた。生命の不思議な力が働いている。心が死のうと思っても、身体は生きることを望んでいる。

 ――――なぜ生きようとしないのか。

 そんな声が聴こえる。この島の精霊の声なのか、それとも私自身の声なのか。

 海に突き出した岬を見つめる。岩肌を露出した岬は深い緑に覆われ、森の神々が棲んでいる。

 運ばれて来た料理を食べながら、ジェシカが「トニーのやつ、うちらのことを勘づいていたわ」と言った。

「どうして、わかったのですか?」と私は驚いて聞き返した。

「あいつは執念深い男や。何するかわからへん。うちの後をつけてきた男をドラム缶に入れて、コンクリート詰めにするような男や」

「――――」

「あいつが何か言ってた?」

「――いえ」と私は嘘をついた。

「うちは今も怖いんよ。あいつが後ろから襲ってくる気がして。うちは、あいつの影に怯えながら生きて来たんよ」

「そうだったのですか――」

「シャブを打たれ、男を取って、好き放題にされて、ぼろ雑巾になるまで、うちはあいつに利用される」

「……………」

「うちは、さびしかたん。ソンが置き屋に売られてしもうて、それであいつは平然としているし。あいつは自分の子どもを売ってしまえる男や。うちの弟が密売金に手を出して、今度はうちを売ろうとしている。うちは、あんなやつの思い通りにはならへんのよ」

「ソンは、私が見つけ出します――きっと……」

 ジェシカが微笑んだ。

「そうね。きっと、会える」

 

33

 

 ゆっくりと時間をかけて食事をした。これが最後の食事かもしれなかった。悲しみが込み上げて来た。料理は悲しい味がした。

 砂浜にタイ独特の形をした木の舟が数隻止まっている。チップを多く出せば、二人だけでもピピ・レイ島に連れて行ってくれるだろう。帰りの便はいらないといったら怪しまれるだろうか。しかし、これもチップをはずんだら特に問題がないだろう。

 私はジェシカの顔を見る。彼女の目は静かな湖のように透き通っている。死への迷いと恐怖。けれども、そこに宿っているのは無垢な優しさだった。死を前に、私たちはもう、何も持つ必要はなかった。だから優しく、素直になることができた。

「そろそろ、行きましょう」とジェシカが言った。

「そうですね。行きましょう」

 

34

 

 ジェシカと私を乗せた船は、きらきらと光り輝くアンダマン海を進んだ。素朴なタイの漁船は波間に揺られ、子守歌を聴いているみたいに居心地がいい。この世にふたりきりだった。生きる苦しみ。悲しみ。美しい自然。爽やかな潮風。目や耳、肌で感じるもの。心に思うもの。それらすべてをジェシカと分かちあっていた。

 舟はピピ・ドン島を離れ、無人島のピピ・レイ島に向かって、波の上を静かに滑っていた。波はどこまでも穏やかだった。

 美しい自然を眺めていると、自分も自然や宇宙の一部であることがわかる。私は偶然にも生を授かり、この世に貸し出されたのだ。見ること、聞くこと、話すこと、感じること、生きていること。それらはすべて自分のものではない。

 私は借り物の生を生きているだけだ。そして、ついにその貸し出しの期限が過ぎたのだ。

 さあ、あなたの時間は終わりました。さあ、返して下さい。

 私がこの命で感じたもの、得たものは何だったのか。さあ、わたしは知りません。どう使おうと、それはあなたの自由ですから。

 変わりゆくもの、流れゆくものに、何の意味も、どんな価値もない。ただ風だ。

 ふと、掌に暖かさを感じた。ジェシカが微笑を浮かべ、私の手を握った。この国の女は優しい。深い母性愛を感じる。弱き者、孤立した者に、嘆いている者にそっと自然に手を伸ばす。

 私はジェシカの手を強く握り返した。 ジェシカの目に暖かで穏やかな色が浮かんでいる。

(ありがとう)

 ジェシカの心の声が私に聴こえる。この女となら、死んでもいい。心から、そう思える。世界で一番美しい女と死んでゆける幸せ。

 私たちの目の前に、ピピ・レイ島の巨大な岩の塊が迫ってきた。

 海面から垂直に切り立った険しい崖。見たこともない島だ。ごつごつとした岩を露出されている。崖の高さ何百メートルあるだろうか。まさしく断崖絶壁だ。山頂にわずかばかりの緑を生やしているだけ。人間の上陸を拒み続ける孤島。

舟は切り立った断崖をまわりこみ、静かな入り江に入った。断崖に囲まれた入り江はエメラルドグリーンの遠浅が続いていた。はっと息をのんだ。眩いばかりの明るく澄んだ光に、軽い目まいを覚えた。そこは、美しすぎるほどに美しいビーチだった。

 

35

 

 私はジェシカの手を引いて舟から降りた。足もとを透明な水が浸した。あたたかく、心地いい水だった。水底の真っ白な砂が透けて見えた。青い魚が速い泳ぎで私たちの足もとを横切った。

 ジェシカは浜辺に向かって歩き、気持よさそうに両手を広げた。それからくるりと振り向いて、小さくジャンプし、白い歯を見せてうれしそうに笑った。

ジェシカは顔にかかった長い髪を手で梳き、波打ち際を歩いた。純白のワンピースを着たジェシカは背が高く、とても美しい。こんないい女を見たことがない。

 ジェシカの目がうれしそうに微笑む。高い断崖の岩の連なりに囲まれた無人島。信じられないくらいに透き通った海。宝石を溶かしこんだように美しく輝いている。私は生きながらにして仏に会えたような気がした。

 ここは楽園を求める旅人が最後に行きつく場所だ。

私はジェシカの腰に腕をまわし、浜辺を歩いた。海から吹いてくる風が、ジェシカの長い髪をなびかせている。風に流された彼女の髪が私の頬にかかった。彼女が好きだと、私は思った。

 ジェシカは、浜辺に打ち上げられた一本の棒に気がつくと、私から離れてしゃがみこみ、棒を拾って砂浜に文字を書き始めた。

ジェシカは真剣な目で長い時間をかけて、砂浜にゆっくり丁寧に文字を書いた。ひとつ一つの文字に愛がこもっていた。

 文字を書き終えると、ジェシカが立ち上がり、砂に書かれた文字をうつむきながら見ていた。文字はタイ語で書かれていたが、人の名前であることがわかった。ジェシカの恋人なのだろうか。

 浜に波が押し寄せ、ジェシカが書いた文字は消えてしまった。ジェシカは、ちょっとがっかりしたような顔になった。私はしゃがんで浜辺に指で文字を書いた。I LOVE YOUと綴った。その文字を見て、ジェシカは薄く笑った。

 

36

 

 夕暮れが近づいていた。最後の観光客の一団がボートに乗りこむと、静かな波と静寂が白いビーチを包んだ。昼間たっぷり吸い込んだ熱が、ゆっくりと時間をかけて冷えていった。

 よく陽に焼けた顔の船頭が船崎に立ち、ロープを手繰り寄せていた。彼は「乗っていくか」というように手招きをしたが、私はいいと手を振った。

 最後のボートがビーチを去ってしまうと、私たちふたりきりになった。

 夕暮れの気配が、赤い蝶のように舞い降りていた。空も、海も、うっすらと、はにかんでいるように見えた。

 波はどこまでも静かで、優しかった。こんな静かな波を、私は見たことがなかった。

 私たちは浜辺で肩を寄せあい、海からの風を感じていたかった。ふたりとも黙ったまま、暮れてゆく空と海を見ていた。

静かな波が打ち寄せ、優しい音色を響かせて、大きな海へと帰ってゆく。

 幸せだった。いい人生だった。最後にこんな素敵な美女と一緒に過ごすことができた。もう何も要らない。欲しくない。

 空も海の色も、流れる雲も水も、刻一刻と変わりゆく。いつまでも同じようにとどまっていない。

ジェシカの長い黒髪が、潮風に揺れている。彼女は私を見つめ、柔らかく笑った。

「シンイチさん、連れて来てくれて、ありがとう。こんな綺麗なところ、うちは初めてよ」

 薄い茜色の光が、ジェシカの横顔を美しく染めている。

 波が優しく、浜辺に打ち寄せていた。穏やかな歌を歌っているみたいだ。

 ジェシカとふたりで空を見上げた。空が、海が、世界が、さまざまな色彩に満ちあれている。

 空が刻々と暮れてゆく。赤っぽい紫から青っぽい紫へと、すっと音もなく。透き通る黄金色や銀色、ワインレッド色の深紅の炎。薄く欠けた白い月が空にぽっかり浮かんでいる。

砂浜にゆっくりと降りてきた夕暮れの空気。ジェシカの足もとを揺らす透明な波。

 光が風に流されて縞となり、薄靄に包まれ、幾重もの層に分かれて、空いちめんに広がっていた。色は微妙に重なりながらも濁ることはなく、それぞれの美しさと威厳を保ったまま、互いにゆずりあい、静かに調和しあい、空と海はいろんな言葉で私に語りかけてきた。

 生きたいと思う気持。死にたいと思う気持。それぞれが互いに顔を出し、透明さや混沌をきわめながら互いに呼びあい、万華鏡のようにねじれ、反転しあいながら、薄茜色の夕空や月の船や幻の海となって、燦爛たる光彩を放つ。

私はジェシカを引き寄せてキスをした。

 長いキスだった。

 唇を離すと、うれしそうな目で微笑むジェシカの顔があった。

「うちの弟、十七歳になった時に好きな女の子ができたって、うれしそうにしてた。ぐうたらな弟が食べ物屋で一生懸命に働くようになった。お金を溜めて、彼女を綺麗な海に連れて行きたいって、そればかり言うてた。ピピ島に連れて行ってあげたい。そう言っていた。それからしばらくして弟がしょんぼりしているので、どうしたんって聞いたら、女の子にふられたって言うて。どうしてって尋ねたら、羽振りのいい男についていったって、そない言うてたわ。お金がないと、好きな女の子とも一緒にいられない。あたしのまわりでは、餓死して死ぬ親子は珍しくなかった。幸せになるにはお金が必要。弟はお金持ちになって、見返してやりたかったんね。お金がすべてという考えになって、だから麻薬にも手を出したんよ」

 まるで楽しいでもするようにジェシカが笑っている。

「―――女の子と行きたかったやろうね。こんなに静かで綺麗な海。あたしの国にもこんな綺麗なところがあるんね」

「タイは美しい国だと思います」

「そう――」

「思い出はつらいね。もう会えないから、思い出してしまうのね」

 湿った夕暮れの風が波間を渡り、浜辺に流れ着き、ジェシカの亜麻色の長い髪を揺らせた。夕闇がゆっくりと淡い闇へと移り変わり、薄茜色に彩られた舞台の幕を引いてゆく。薄い靄が漂い始めた東の空に幾つかの星がまたたき始め、海はどこまでも優しく静かだった。

「シンイチさんと船に乗ってピピ島に来た時、弟のことを思い出してん。弟、もし今、あの時の女の子と一緒にここへ来ても、ちっともうれしないやろ。もう過ぎてしまったんよ。弟が今、どれだけお金を持って、あの時の女の子とどんな時間を過ごしても、もうあのころの気持には戻れへんのよ。時間は閉じられてしまった」

「弟さん、その女性が好きだったのですね。私もお金がなくてつらい思いをしましたから――」

「そう。あたしの弟は捕まってしもうてん。釈放にお金がいるね。弟、死刑にされてしまうわ」

「死刑ですか……」

「弟を助けたくて、あたしが身体を売っても、お金はトニーに入るだけ。うち苦しいね」

「――――――――」

「シンイチさん、うちは身体を売りたくないのん。でも、もうええね。どぶの水を吸って綺麗に咲くのが、蓮の花や。うちの身体がどんなに汚れても、あたしはシンイチさんと見た夕陽を思い出すから。そうしたら、うちはいつまでも蓮の花でいられるから」

「あなたは蓮の花よりも美しい」

 ジェシカは、ふふふと笑った。ジェシカは恥じらいの表情を見せ、私の唇にキスをした。

「……シンイチさんが好よ」

 言葉が出て来なかった。

 幸せだった。

「ここで、あなたと一緒に死んでもいいと思っています―――」

「そう――――」

 拳銃には弾が二発残っている。ジェシカを殺し、自分も死ぬ。何も考えないようにした。死ぬことだけを考え続けた。

 穏やかに暮れてゆく空の果てを眺め続ける。雲の中に仏が見える。あの空の果てよりも、もっと向こう、もっと奥に、淡い光の粒が浮かんだ空の彼方に、聖なるものが沈みこんでいる。 

なんて美しい夕空。空がこんなに綺麗だなんて。何もかもが、そこに生きていた。意識が開いていた。ちょっとした空気の変化や微かな物音や香りにも敏感になっていた。これまでおさえつけられていたものが解き放たれて、本来の感覚を取り戻しつつあるのかもしれない。

 目に見えるものがはっきりと見え、空気や光、水の匂いや音が以前よりも澄んだものとして、感じられるようになった。死を前にして澄み切った気持でいた。恨む気持ちも、憎しむ気持ちもなかった。心は優しさで満たされていた。波音はどこまでも哀切な音色を響かせ続けた。

 

37

 

「高い場所に行きたい」とジェシカが言った。

 私は無言でうなずく。

 私は立ち上がり、脚についた砂を払った。ジェシカと手をつなぎ、ビーチを離れ、ジャングルへと踏み込み、岩山の頂上に向かって歩き出した。熱帯樹林や蔦が絡まりあう森を抜け、ひたすら上へ上へと昇り始めた。

 どこをどう登っているのか、まるでわからない。心臓が早鐘のように高鳴る。まわりの景色は何も目に入らない。ひたすら死にたいと思い続けた。心臓が沸騰するくらいに息苦しかった。

 死のうと思い続けることが、生きることだった。こうして死に向かっていても、必死に生きようとしていた。死を強く意識することで、生の時間を輝かせていた。

何度か迷いそうになりながらも、ようやく崖の上にまで辿り着くことができた。体中から毒素が抜けたみたいに気分が、すっと楽になった。

ごつごつとした崖のてっぺんには、わずかばかりの植物が生えていた。私たちは手をつなぎ、崖の縁を歩いた。岩の尖った先が、海に向かって突き出していた。切り立った崖が、まっすぐ海に向かって落ちている。崖から覗きこむ。目がくらむほどに高い。しかし、不思議に怖いという気持ちにならなかった。

浅瀬の海が細やかな金箔を敷き詰めたような黄金色に輝いている。視線を水平線に移すと、大海原に沈もうとする太陽が見えた。不思議なくらいに鮮やかな金色の光を放っている。すっとした金色の柱が水平線から天へと向かって、まっすぐのびている。

 私たちは黙って、空と海を見ていた。遠く沖を見ていると、水平線がゆるくカーブしている。地球が丸いことがわかる。空と海のあいだは、光り輝く太陽柱(サンピラー)が海から現れた女神のようにすっと立っている。

空を見上げる。空は、からっぽではなかった。薄青い粒子が、びっしり詰まっている。大気に砕かれ、燃え尽きた流星群が浮かんでいる。太陽の光にきらきらと輝くダイヤモンドダスト。天使たちが帰ってゆく。天上から差し込む金色の光を手繰り寄せながら。

 ジェシカは岩場にしゃがみこんで海を見ている。私は肩から斜めがけしているバックから拳銃を取り出す。弾は二発。

 ジェシカに銃口を向ける。

 断崖に打ち寄せる静かな波音が聞こえる。光や水や空気が、まるで命があるかのように生まれたり消えたりする。静かに風を感じる。この崖、この海、この空、この音、この夕陽……。

 指先が震える。私にジェシカを殺すことはできない。自分のこめかみに、そっと銃口をあてた。

 断崖の先でうずくまっていたジェシカが振り向いた。その笑顔を、私は驚いて眺める。ジェシカは二度、三度とうなずいてみせる。私の顔にも微笑が浮かぶ。ずっと遠い昔から、彼女を知っていた気がする。

「もうええね」とジェシカが言った。「うちは、もうええね。ここまで来れたから、もうええの」

 ジェシカの顔を見つめる。彼女の表情に宿っていた黒い影が身をひそめ、透き通った目に素直な優しさが満ちあふれている。

「うちは、死のうと思うててん。シンイチさんが一緒に死んでくれるっていう気持ちがわかって、うちはうれしかってん。シンイチさんがうちと一緒にずっといてくれて、うちはほんまにうれしかってん」

 ジェシカは涙をこらえ、唇を噛んだ。

「うちのために、シンイチさんを道ずれにしとうない。シンイチさんはこれからもずっと旅をしていて欲しいね。うちみたいな女じゃなくて、ちゃんとした女と幸せになって欲しいね」

 断崖から強い風が吹きあげる。ジェシカの長い髪を大きく揺らす。

「シンイチさん。一人で死ねないっていうのは、一人では生きられないっていうのと同じことや」

 次第に濃くなる闇を背に、ジェシカの目が強く透き通ってゆく。高ぶっていた気分がしずまり、潮騒の響きがすっと薄れた。

「シンイチさん、うちを抱いて――――」

 切り立った断崖の崖っぷちで、ジェシカを抱いた。私の腕の中で、ジェシカは小鳥のように静かに目を閉じていた。あたたかさを感じた。

 私の背中にまわしたジェシカの手が次第に強さを増してゆくのを感じた。夕暮れの匂い。潮の香り。それらは不思議な光を放ちながら、暮れなずむ空にいつまでも浮かんでいた。

 

38

 

 浜辺にまで戻って来た時には完全に陽は落ち、深い紺色に満たされた夜空に、淡い金色の月が浮かんでいた。夜空には、ため息をつきたくなるような満天の星が輝いている。私たちは森の中で拾った椰子の実やマンゴー、ミニパイナップル、私ンジを浜辺に広げた。岩場に転がっている石を使って実を割り、果物を齧った。ぱあっと意識が覚醒した。生きている、と思った。

 これからどうなるのか。バンコクに戻るのか。トニーに見つかればどんな仕打ちを受けるのか。ジェシカの弟はどうなるのか、ソンは見つかるのか。

 だが、そんな人間界のことは細かな塵のように思えた。夜の彼方から、優しい潮騒が聞こえる。月明かりの冴えた光が海原に散りばめられている。波は月の雫を受けて、光の粒を集めている。

 強い霊気が、この島に張りつめている。波の一つひとつ、砂の一粒や一本の樹にも、神を感じる。この島には、神々が宿っている。透明で、きらきらと輝くエネルギーの雫がこの島に集まっている。島の頂から放たれた目に見えない水流が、強い霊気を秘めながら清らかな流れとなって身体の中に入り込んでくる。生命は、もっと深い、大きなところでつながっている。

 私は無言のまま、ジェシカと肩を並べて浜辺に座り、柔らかな波の音を聞いていた。月の光は明るく、ジェシカの姿をくっきりと薄青く照らしていた。

 ジェシカの肩が、私の肩にふれた。彼女の熱い肌が感じた。

 水晶や柘榴石を細かく砕いたように光るものが、海の上をさらさらと流れている。沖には岩礁が白く浮かび、その中央には私ンジ色に細長く光るものが立っている。美しい微笑をたたえた般若像が立ち、すっきりとした金色の光背を抱いている。

 ――本当はもう私は死んでしまったのかもしれない。

「あたしの肩に天女のタトゥーがあるでしょ」

「ええ」

「タイの昔話に、天女の話しがあるの? 知っている?」

「いえ―――知りません」

「そう。幼いころ、寝る時にお母さんからよく聞かされた話なんよ。空が金色に輝く朝に、鮮やかなピンク色のスカートをはいた天女が下界に降りてくる。天女が散歩をしていると、道に迷ったニンゲンの女の子がいた。女の子は涙をぽろぽろ流していた。道に迷って、家に帰れない、と女の子は言うの。

それで、天女はニンゲンの女の子を連れて、その子の家まで届けてあげるんのよ。家ではその女の子がいなくなったことで大騒ぎしていた。女の子は、天女が優しくしてくれて、家まで送って来たことをお父さんに話したの。お父さんはすごく感謝して、指にはめていたダイヤの指輪を天女に渡した。天女は断ったけれども、お父さんからどうしても受け取って欲しいと言われて、しかたなく指輪を受け取ってしまったん。

天女は天界に帰り、子どもを助けたお礼にダイヤを受け取ったことを話したの。それを聞いたまわりの天女たちはすごく怒るの。“恥ずかしくないの! わたしたち天女は何かのお礼を引き換えに、人を助けるんじゃないのよ。ただ、困っている人たちに手を差し伸べて、救ってあげる。それだけなのよ”って。

それで、天女は指輪を返しに行き、女の子に言うの。“もし困ったなら、気をしっかり持って、わたしたちのことを強く心に思うのよ。それだけで誰かが必ず助けに行くから”

あたしが、幼いころに、お母さんから聞かされた話しよ。天使のお務めというのは、人や鳥、魚、動物たち……すべての生きものを幸せにすることなんよ」

沖で光っていた私ンジ色の明かりが近づいてきた。般若像は波の上にすんなり立っていた。うっすらと微笑んでいた。

 ジェシカは海を見ている。

ジェシカの肩に彫られた天女。エンジェルはジェシカに入り込み、生きていた。ジェシカの瞳に映るのは、この透き通った天女の目の光だ。

 彼女は浜辺に立ち、しばらく夜の海を眺めていた。

ジェシカは後ろ姿のままで、しなやかな手つきで白いドレスを脱いだ。艶やかな肌が露わになった。ジェシカは首を振ると、美しく長い髪が彼女の背中にさらさらと流れ落ちた。まるで、まぼろしを見ているようだった

ワンピースの下には何もつけていなかった。彼女は、この世に生まれおちた姿で浜辺に立っていた。背の高い彼女の後ろ姿が、月明かりにぼんやり浮かんだ。

 食い入るようにしてジェシカの裸体を見た。胸は形よく発達し、くびれた腰のラインは優しい起伏を描き、豊かに盛りあがったヒップのラインはあまりにもエロティックで、セクシーだった。長く、真っ直ぐでしなやかな脚が瑞々しく張りつめている。息を呑むほど、彼女は美しい。

 ジェシカは海に入って行った。膝が水に浸かったところで、彼女が振り向いた。

かげろうのような薄明かりの中で、ジェシカの身体がぼんやり白く浮かび上がり、彼女の身体の動きにあわせて月の淡い光が彼女の柔肌をゆっくり移ろった。つんと上を向いた豊かな胸や縦長の美しいへそや繊細なウエストや下腹部のやさしい曲線や薄く茂った茂みや、すんなりと伸びた脚が月夜の川原の小石のように不思議に光っていた。陰影に富む身体つきをしたパームの身体は、この上もなく、神々しく、神秘的だった。

美しい切れ長の眼。すっと通った綺麗な鼻梁。ジェシカの表情は繊細な優しさを含んでいた。

ジェシカはそのまま海に向かって歩き、そして沖に向かって泳いでいった。私は無我夢中で服を脱ぎ、海に飛び込んだ。海に飛び込むと、ジェシカに向かって泳ぎ出した。

私が水から顔をあげると、美しく澄んだジェシカの目があった。黒々とした瞳が私を見つめて微笑んでいる。ただ驚いてジェシカを見ていた。

 光り輝く夜光虫の群れの中で、ジェシカを抱いた。私の水平線いっぱいに、ジェシカの白い肌が広がった。

 ジェシカの中に私ンジ色に光る般若がいた。般若を抱きながら、私は海の泡になった。

 

39

 

 ジェシカを抱きながら浜辺で眠った。夢を見た。

 夕暮れの浜辺で、私はひざを抱えて座っている。暮れてゆく空と海を眺めている。ここは、どこなんだろう……。夢の中で、私はそんなことを思っている。

薄赤く染まった波打ち際に、小さな白い影のようなものがひとつ漂うように動いている。

白い服を着た小さな女の子だ。細い両手に、たくさんの花飾りを通している。女の子は髪が長く、よく陽に焼けている。ビーチマットで横になっている白人たちに声をかけ、花飾りを手渡す。しかし、白人たちは一様に首を横に振る。女の子はあきらめずに新しい客を探す。だが、花飾りはひとつも売れない。両手にいっぱいの花飾りを抱え、少女は千鳥のように浜辺を駆けてゆく。

夕暮れが美しい光を放っている。少女の長い髪のまわりで、金色の光が微かにきらめいている。少女と目があった。私は微笑んだ。少女も微笑を返す。

 少女は、人懐こい笑顔で私に近づいてきた。女の子は十歳を越えていない。おそらく七、八歳くらいだろう。

少女は、口がきけないようだった。はにかんだ笑顔を見せ、上目遣いで、私をちらりと見た。少女の足を透明な波が洗っていた。

 私は、花飾りを買い求めた。私はかがんで、少女と目線を合わせた。少女は背伸びして、私の首に花飾りをかけてくれる。赤い蘭の花を糸に通して作った花飾りだった。少女の顔が目の前にある。黒い瞳が、うれしそうに微笑している。少女は私の顔に近づき、目を閉じた。

一瞬、ぐっと息が止まった。軽く触れただけだが、唇を強く吸われた。強い衝動に突き動かされた。少女の中から光が生まれ、仏が現れた。厚く覆っていた雪雲から青空が顔を出した。阿弥陀如来の光背のような金色の光が、雪雲の底を明るく照らした。

 それから私は浜辺の近くにある宿に戻り、花飾りを首にしたまま眠った。どれくらい眠っただろう。軽やかな鈴の音で目が覚めた。誰かが、私を呼んでいた。静まり返ったヤシの樹の小径を歩き、夜の浜へと出た。

真っ暗な海に、無数の蛍が静かに舞い降りる雪のように、淡い色で浮かんでいる。蛍の群はふわふわと風に流され、失われた時を取り戻すかのように、くっきりとした鮮やかな軌跡を夜風に描いた。

やがて蛍の光が束となり、大きなかたまりとなった。蛍の光が集まった渦の中から幾百幾千という流灯舟が流れて来て、狐火のような仄かな灯りが波間に照り映えていた。流灯舟は、光の輪郭が風に滲むのを見届けてから、やがて夜空へと舞いあがった。

蛍の光だと思ったのは、ロイクラトンだった。ロイクラトンは満月の夜に水の精霊に感謝を捧げ、魂を浄化するタイの行事だ。

タイの北の都、チェンマイでは、蝋燭を灯した幾百幾千もの小さな円筒気球が打ち上げられる。

無数の気球は厚い闇に向かって、ふと顔をあげたように川面から空ヘと次々に昇っていった。

その姿は、闇の中に咲く蓮の花のようだった。暗闇の中で私は、放心したように蓮の花に手を伸ばした。蓮の花に触れようと、無心に遊んでいた。いつでも指先に触れそうな空間に蓮の花は揺れていた。ひとむらの蓮の花は妖しいばかりの美しさをもって、私の網膜を染め、深い夜の底に沈みこんでいった。

私は、花飾りのことを思い出した。夕暮れの浜辺で少女から受け取った花飾り。私は首から花飾りを取ると、目の前にあった気球に結びつけた。花飾り小さな弥勒菩薩像のように見えた。美しい微笑をたたえた弥勒菩薩像が立ち、すっきりとしたいい顔をしている。私は長い間、仏の顔を見ていた。

風が吹いた。浜辺で光を揺らしていた夥しい数の気球が、すっと音もなく、夜空に向かって、次々とのぼっていった。燃え盛る火の粉のように夜空を舞いあがり、そのささやかな光は厚い雲へと呑みこまれていった。

空の上で少女が微笑んでいる。花飾りを付けたロイクラトンはどんどん高く天へと昇ってゆく。空の彼方に消える。少女が天界で花飾りを受け取ったのだ。やがて厚い雲から白い花が散り、海の上を白く染めた。

 

40

 

 深い森からヒヒのような鳴き声が聞こえてくる。一晩中、ジェシカを抱いていた。彼女の中に凍りついた鳥がいた。私が抱いているのはジェシカではなく、鳥なのかもしれない。

 夜明けが近かった。空が乳白色に明けてゆく。満天の星が少しずつ空の奥へと沈む。透明な宇宙の水底で眠り始める。ヤシの葉に包まれた島は、翼をたたんで眠る大きな鳥だった。大きな鳥の翼に抱かれて、眠っていたのだ。

鳥を閉じこめていた厚い氷が私ンジ色の光に煙をあげて溶け出した。昼と夜を引き離す夜明けの光を待っていた。鳥は大きく翼を広げている。

 ジェシカ、天使が見えるよ。天使が帰ってゆく……。

明るすぎる空の果て。聖なる静寂な世界へ。

 ジェシカが目を覚ます。静かに打ち寄せる波に生まれたばかりの太陽の光がゆらゆらと揺れている。やがて空全体が黄金色の陽光に染まる。

「ここはどこ? あっ、綺麗ね。蓮の花が咲いている」とジェシカが言う。

私はジェシカの顔を見つめる。切れ長の目も、筋の通った鼻りょうも繊細な優しさを秘めている。彼女の黒髪が朝露に濡れたようにしっとりとしている。その細くて柔らかな髪を撫でていた。

 静かな波の音が聴こえる。生まれたばかりの光が広がるまっ白なビーチで、私たちはもう一度、抱きあった。

私の腕の中で、ジェシカが微笑んでいる。彼女の目に、暖かみのある色が広がる。

ジェシカの肌はきめ細かく、私の身体にぴったりと吸いついた。豹のような、しなやかな身体つき。きゅんとしまったくびれ。ジェシカの身体は完璧なまでに美しい。ジェシカは艶やかな髪を乱してのけぞる。快楽のうねりが彼女をのみこむ。

明けたばかりの空に向かい、動物のような澄んだ声が響き渡った。

 

41

 

 ジェシカは、心地よくまどろみながら私の肩にもたれていた。入り江の向こうからボートがやってくる。昨日の夕方、このビーチで出会ったタイ人の船頭が、真っ黒に日焼けした顔で笑っている。

 船頭は私たちに水が入ったペットボトルやパイナップルを渡した。私たちは笑顔で受け取った。私たちはボートに乗って島を出た。洋上いっぱいに太陽の光が降りそそいでいる。私たちの命は、いろんなところでつながっていた。タイ人の男は、私たちを心配して迎えに来てくれたのだろう。

 ―――――どんなことがあっても逃げ切ってやる。生きてやる。

ジェシカを連れて、どこまでも―――――。

 ジェシカは舟から身を乗り出し、洋上にきらきらと光る陽光の雫を見つめている。ジェシカの頬を涙が伝い、美しい真珠となって海の中に落ちていった。

 ジェシカは涙が涸れるまで泣き続けた。

 舟が海峡を越えて、ピピ・ドン島に近づこうとしていた。波のうねりが高く、舟は大きく揺れた。

 ジェシカは好きなだけ泣くと、すっきりとした顔になった。何かが吹っ切れたのだろう。

 ジェシカは振り向き、素直な目を私に向ける。

「シンイチさん、うちのこと待っていてくれる?」

「えッ」

 私は驚いてジェシカの目を見つめる。深い愛を感じる。

「三年後、あの島で待っている」

「―――――――――」

「うち、海を泳いでも、この島に行くからッ。忘れへんからッ―――――」

 ジェシカが叫ぶのと、彼女が海へと飛び込むのと同時だった。咄嗟に私も立ちあがった。ジェシカが飛び込んだ海に、私も身を投げた。

 大きな波に呑みこまれた。海水が目に沁みて、目を開けることができない。

 私はジェシカの名前を叫んだ。大量の海水を飲みこんだ。息が苦しい。海の泡が見えた。もがけばもがくほど身体は水中に沈んでいった。

 ジェシカ――――――。

 意識が消えてゆく中で、私はジェシカの名前を呼び続けた。

 

42

 

 目が覚めた時、しばらくは様子がつかめなかった。やがて、自分が病院のベッドに寝かされていることに気付いた。

 白衣のナースが微笑みかけ、ここがピピ・ドン島の病院だと告げた。

 私は起き上がろうとした。だが、身体の自由がきかない。腕には点滴の針が通されている。

「まだ休んでいてください」と、若いナースが優しく語りかけた。

「ジェシカは? 彼女は?」

「お連れの方ですね。別の船に乗ったのを見かけた人がいるそうです。安心してください。今はゆっくり休んで」

 私の頭の中は、真っ白になった。

 退院すると、私はまっすぐにバンコクに向かった。クロントイのスラム街に行き、お婆さんを訪ねた。だが、お婆さんの姿はなかった。駄菓子屋の店は閉まっていた。扉には南京錠が掛っていた。私の部屋も、ジェシカやトニー、ソンが出入りをしていた下の部屋も、鍵が固く閉ざされていた。物音はまったく聞こえなかった。

 

43

 

 私はそれから三年間、悪に手を染め、必死になって大金を稼いだ。ジェシカやソンに幸せを買ってやれる。

 洋上いっぱいに光が降りそそいでいた。船のデッキから首を出すと、あの島が見えた。船は輝く海へと漕ぎ出している。眩しい光に目を細める。もうすぐジェシカに会える。

どこまでも青く透き通るアンダマンの海。その先にあるのは、天女がこぼした真珠の白い涙だ。

 

 

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